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纒向珠城宮伝承地

相撲発祥の物語を伝える土地

纒向珠城宮は、第11代垂仁天皇の営んだ宮とされています。日本書紀によりますと、垂仁天皇の時、野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)とが天皇の前で初めて相撲をとったとされています。この物語は、相撲発祥の物語として知られており、ここから東にある相撲神社は、その相撲が行われた地として伝えられています。野見宿禰は、出雲の人で、天皇がそれまでの殉死の風習をあらためようとしたとき、替わりに埴輪を作ることを進言した人物としても記されています。

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記紀万葉の物語(垂仁天皇の条)

  • 狭穂彦王の謀反(狭穂姫の悲話)
  • 伊勢斎宮のはじまり(元伊勢)
  • 相撲発祥の物語
  • 埴輪のはじまり

※記紀とは、奈良時代(AD.710~AD.794)に編纂された『古事記』『日本書記』のことを指し、日本の神話や歴史を伝えている日本で現存する最古の重要な歴史書である。

ときじくの果の木の実

伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと・垂仁天皇)には、多遅摩毛理(たじまもり)という、新羅国の王子の子孫がお仕えしていました。ある時、天皇は多遅摩毛理に常世(とこよ)の国にあるという「ときじくのかくの木実」を探すよう命じました。
常世の国とは、不老不死の理想の国のこと。そこで実るときじくのかくの木実は「時を定めずに黄金に輝く」という木の実で、不老不死の源だと伝えられていました。
ときじくのかくの木実を探す多遅摩毛理の旅は大変なものでした。都へと戻ったときには出発から十年もの歳月が流れており、天皇はすでに亡くなっておられたのです。
多遅摩毛理は、持ち帰った実の半分を皇后に差し上げ、残りを天皇の御陵(お墓)にお供えし、涙ながらに、いいつけを果たしたことを伝えました。その悲しみは深く、多遅摩毛理もそのまま亡くなってしまいました。
垂仁天皇の御陵は奈良市尼ケ辻にある宝来山古墳とされおり、その御陵に寄り添うように濠に浮かぶ小さな島は、多遅摩毛理のお墓だと語り継がれました。秋には周囲に植えられたミカンの木が、天皇と多遅摩毛理の思いが鎮まる地に黄金色の光を灯すように色づきます。

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