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泊瀬朝倉宮伝承地

大和朝廷の力を伸ばした力強い天皇

泊瀬朝倉宮は、第21代雄略天皇の営んだ宮です。雄略天皇の代には、熊本県や埼玉県の古墳から獲加多支鹵(ワカタケル)大王と雄略天皇の名を彫った鉄剣・鉄刀が出土していることから、大和朝廷の勢力が全国に及んでいたとされています。また、中国にも朝貢の記録があり、『宋書』(西暦502年完成)に記されている倭の五王、讃・珍・済・興、武のうち、武は、雄略天皇であるとされています。記紀に記されている三輪山の大物主大神や葛城の一言主大神にかかわる逸話や、万葉集の巻頭を飾る妻問いの歌には、国の礎を固めつつある雄略天皇の力強く自信に溢れた様子がうかがえます。

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記紀万葉の物語(履中天皇の条)

  • 万葉集の巻頭歌

※記紀とは、奈良時代(AD.710~AD.794)に編纂された『古事記』『日本書記』のことを指し、日本の神話や歴史を伝えている日本で現存する最古の重要な歴史書である。

引田部の赤猪児

ある時、大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと・雄略天皇)が、美和河(みわがわ)のほとりで美しい乙女と出会いました。天皇は「お前は誰の娘か」と問い、乙女は、「私は引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)と申します」と答えました。この時代、男性が名を問いかけ女性が答えるのは、プロポーズに応じるのと同じ意味でした。天皇は「すぐ呼びにこよう」と乙女に伝え、宮へと戻りました。
赤猪子は天皇から召される日を待ちますが、迎えは来ないまま、とうとう八十年もの月日が流れました。
天皇にお仕えすることは叶わないと知りつつ、赤猪子は宮へうかがうことを決意します。
ようやくお目通りできた天皇は、赤猪子のことなどすっかり忘れていました。でも、「私の操だけはお伝えしたかったのです」と訴える赤猪子の真心は天皇の心に響き、約束通り結婚したいともお考えになりました。しかし、お互いの年齢を考えればそうもいかず、歌を交わし、数々の贈り物をお与えになりました。
八十年の間、美しい赤猪子に思いを寄せる男性は何人も現れたはず。それらを振り切り、たった一度の約束を胸に待ち続ける――。人を本当に好きになるとは、こういうことなのかもしれません。

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葛城の一言主大神

大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと・雄略天皇)が、お供をつれて葛城山に出かけた時のこと。向かいの山の尾根から、天皇の一行と人数も服装もそっくりな一行がやってきました。
驚いた天皇は「おまえたちはいったいどこの誰なのか」と言いました。すると、向こうの一行からもまったく同じような言葉が返ってきました。腹を立てた天皇とお供の人たちが弓をかまえると、相手の一行も同じように矢をかまえてきました。
そこで天皇が「それぞれに名乗ってから、矢を放とう」と言うと、相手は「私は、どんな凶事も、どんな悪事も、一言で言い放つ、葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)であるぞ」と答えました。
天皇は驚き恐縮すると、持っていた大刀や弓矢、お供の人の衣を一言主大神に献上しました。
一言主大神は手を打って喜び、供え物を受け取りました。天皇の一行が帰ろうとすると、大神は葛城山から長谷(はつせ・奈良県桜井市)の山のふもとまで送ったといいます。
暴君といわれた雄略天皇が、自分そっくりの神様を前にあわてふためく姿は、どこかおかしくもあります。こんなちょっと不思議で面白いエピソードがあるのも、『古事記』の魅力でしょう。

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伊勢の采女

大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと・雄略天皇)が、泊瀬(はつせ)にある大きなケヤキの木の下で、新嘗祭(にいなめさい)という収穫祭の宴会をもうけた時のこと。
伊勢の国から宮につかえていた采女(うねめ)が、ケヤキの葉が杯の中に落ちたのに気づかず、そのまま天皇に献上しました。怒った天皇は、采女の首を落とそうとします。すると采女は「申し上げたいことがございます」と言い、静かに歌をよみました。

『纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)は、朝日が照り、夕日が光り輝く、おめでたい宮です。
そして、竹や木が大地に根を張るように、しっかりと築かれた宮です。
桧づくりの宮殿の、新嘗を行う御殿には、枝張りのよいケヤキが生えています。
上の枝は天をおおい、中の枝は東の国をおおい、下の枝は西の国をおおっています。
その上の枝の葉は中の枝に、中の枝の葉は下の枝に落ちます。
下の枝の葉は、私がささげる杯に落ちて、浮いた脂のように、ただよっています…』

杯に浮かんだケヤキの葉を、国土がつくられた神話に出てくる「浮いた脂」に見立てて、縁起の良いことをことほぐ歌を作ったのです。この歌を聞き、天皇は采女を許したといいます。

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三輪山の神をお祭りした話

 古事記では、崇神天皇の時、国中に人々が絶えてなくなるような病が流行り、天皇が憂い嘆いていたことろ、夢に大物主命が現れて、「これは、私がしたことである。大田田根子をもって私を祀れば、病は止み、国は安らかになるだろう。」といわれたを記されています。
 天皇は、すぐに人を四方に走らせ捜したところ、河内の美努村という処にこの人を見つけました。天皇の「汝は誰か」との問に、大田田根子は「私は、大物主命をイクタマヨリ姫との間に生まれた子の子孫です。」と答えました。天皇は、「これで天下が平和になり、民が栄える。」といって喜び、大田田根子を以って三輪山に大物主命を祀らせました。また、宇陀の墨板神に赤の楯矛、大坂の神に黒の楯矛を祀るなどすると、やがて疫病も治まり、国も安らかになったと記されています。
 なお、壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)側に立ち上ツ道の箸墓古墳付近で近江軍と戦い勝利し、また持統天皇の伊勢行幸について農事の妨げになるので避けるようにと諫言したと記されている三輪朝臣高市麻呂の始祖は、この大田田根子であるとされています。

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