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平成19年度速報展

『平成18年度発掘調査速報展』

平成19年6月13日~9月30日 桜井市立埋蔵文化財センター
-夏季企画展「平成18年度発掘調査速報展」解説書 より抜粋- 2007年6月

1.はじめに

桜井市は、初期ヤマト王権発祥の地として知られる纒向(まきむく)遺跡や銅鐸(どうたく)が発見された大福(だいふく)遺跡、また箸墓(はしはか)古墳・桜井茶臼山古墳をはじめとする古墳など、数多くの遺跡が存在する“遺跡の宝庫”とも言うべき街であり、遺跡の保護、周知・啓発を目的とした埋蔵文化財発掘調査にカを入れております。
市内では昨年度1年間に17件の発掘調査が行われ、はじめて発掘調査された古墳や周知の遺跡などから新たにたくさんの貴重な資料を得ることができました。
今回の夏季企画展『平成18年度発掘調査速報展』は、これら成果をできるだけ早く皆様にご紹介するために企画したもので、展示を通じて今の桜井を育んだ先人たちの足跡に思いを馳せ、桜井市の文化財に対する理解を深めていただければ幸いです。

平成18年度発掘調査一覧

  1. 芝遺跡第33次 (調査期間):平成18年4月12日~4/14 (面積):30平方メートル
  2. 纒向遺跡第146次 (調査期間):平成18年5月1日~6/5 (面積):56平方メートル
  3. 大福遺跡第25次 (調査期間):平成18年6月16日~12/25 (面積):867平方メートル
  4. 大藤原京関連遺跡第47次 (調査期間):平成18年7月10日~7/12 (面積):40平方メートル
  5. こうぜ古墳群第1次 (調査期間):平成18年7月24日~9/29 (面積):320平方メートル
  6. 長谷寺遺跡第2次 (調査期間):平成18年7月26日~8/4 (面積):70平方メートル
  7. 城島遺跡第41次 (調査期間):平成18年8月7日~8/16 (面積):90平方メートル
  8. 安倍寺跡第20次 (調査期間):平成18年8月14日~9/22 (面積):80平方メートル
  9. 粟殿遺跡第7次 (調査期間):平成18年9月5日~10/13 (面積):236.5平方メートル
  10. 城島遺跡第42次 (調査期間):平成18年10月13日~10/25 (面積):30平方メートル
  11. 大藤原京関連遺跡第48次 (調査期間):平成18年10月23日~10/30 (面積):45平方メートル
  12. 風呂坊古墳群第2次 (調査期間):平成18年12月11日~12/20 (面積):40平方メートル
  13. 横内遺跡第5次 (調査期間):平成19年1月18日 (面積):20平方メートル
  14. 纒向遺跡第147次(東田大塚古墳第4次) (調査期間):平成19年1月22日~3/23 (面積):138平方メートル
  15. 纒向遺跡第148次(矢塚古墳第2次) (調査期間):平成19年1月22日~3/27 (面積):54平方メートル
  16. 高田寺谷1号墳 (調査期間):平成19年2月27日~3/30(面積):28平方メートル
  17. 大藤原京関連遺跡第49次 (調査期間):平成19年3月1日~3/20 (面積):98平方メートル

広報「わかざくら」~発掘調査現場から~ を参照

2.平成18年度の調査

粟殿(おおどの)遺跡第7次調査 〔NO.9〕

今回の調査では、主に縄文時代の溝が検出されました。溝は、南東~北西方向へ直線的に掘られ、そのうち西側は幅が約1メートル前後で断面はV字形であり、東側は幅が約2.5~3.5メートルと広く、浅いU字形となっていました。
またこの両者を繋ぐ部分は、径約3メートル・深さ約90センチメートルの不整円形の淵(ふち)状になっており、その東側には木杭(きぐい)が溝に対し直角に並んでいた事から、堰(せき)があったと考えられます。
溝内には全体に砂が堆積しており、特に淵状部分の最下層に堆積する砂からは、残りの良い中期未~後期初頭の深鉢の破片がまとまって出土しました。

溝全景の写真

写真:溝全景(北より)

詳しくは発掘調査報告(220回~229回)ページの発掘調査現場から(226回)、粟殿遺跡第7次調査の成果をご覧ください。

発掘調査報告(220回~229回)

大藤原京関連遺跡第47次調査 〔NO.4〕

第47次となる今回の調査では、土坑2基と旧流路を検出しました。
土坑1は、一辺約90センチメートルの正方形で、探さは約20センチメートルを測ります。土坑2は、トレンチ北端付近の遺物包含層(ほうがんそう)直下から検出し、全体の形はトレンチ外まで遺構が続くため不明なものの、深さは約20センチメートル確認できました。旧流路は、南東~北西方向へ流れており、トレンチ内ではその北岸が検出されました。
各遺構の時期は、土坑2と旧流路は出土した土器片から弥生時代後期と考えられますが、土坑1は遺物が出土しなかったため不明となっています。

土坑2全景の写真

写真:土坑2全景(南より)

大藤原京関連遺跡第48次調査 〔NO.11〕

第48次調査では、大藤原京の二条大路の北側道路側溝と、古墳時代前期の旧流路・弥生時代後期のピット・土坑・落ち込みを確認する事ができました。
道路側溝は、幅約1.3メートル・深さ約30センチメートルで、少量ですが須恵器片と土師器片が出土しています。旧流路は、トレンチ内では南岸が検出され、その中~下層からは古式土師器や加工木・自然木が出土しました。
最も遺構・遺物が多かったのが弥生時代後期で、ピットや土坑・落ち込みからは多数の土器片の他、完形に近い甕も出土しました。

道路側溝全景の写真

写真:道路側溝全景(西より)

大福遺跡第25次調査 〔NO.3〕

今回の調査は市道の延伸に伴うもので、大福小学校の南西側で行われました。大福遺跡は小学校から過去に銅鐸(どうたく)が出土したため、弥生時代の遺跡として有名ですが、古墳時代前期から藤原京期にかけての遺構・遺物などもみられます。
今回も藤原京期の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、古墳時代前期の旧河道、弥生時代の溝などが確認されました。藤原京期の建物は条坊道路に近い調査区南側で4棟以上確認され、さらに調査区外に広がっていきます。
古墳時代前期の旧河道は幅約8メートル、深さ2.5メートル以上で北西方向へ蛇行しながら流れていたもので、現在の寺川の支流の一つだったと思われます。
河道の埋土からは多量の土器や木製品(槽(そう)・案(あん)・竪杵(たてぎね)・鋤(すき)・杭(くい)など)などが出土し、その中でも直弧文が刻まれた木片は珍しいものといえるでしょう。これらの遺物は近辺にあった集落で使われていたものと思われます。
弥生時代の溝は、幅3メートルで深さ1.6メートルの大規模なもので調査区中程でL字型に曲がります。出土した土器から、弥生時代中期に掘削され後期にはすでに埋没したことがわかりました。

旧河道の断面の写真

写真:旧河道の断面(南東より)

弥生時代の溝の写真

写真:弥生時代の溝(南東より〉

詳しくは発掘調査報告(220回~229回)ページの発掘調査現場から(227回)、大福遺跡第25次発掘調査をご覧ください。

発掘調査報告(220回~229回)

大藤原京関連遺跡第49次調査 〔NO.17〕

近鉄大阪線の線路に面し岸之上池の東隣に位置するところで、幅約3メートル、南北約33メートル、面積98平方メートルにわたって発掘調査を行いました。
この結果中世素掘溝、時期不明の東西溝、飛鳥時代の落ち込み、古墳時代の溝3条といった遺構やたくさんの遺物を確認することができました。中でも調査区のほぼ中央で見つかった溝SDO3は、幅約2.5メートル、深さ約70センチメートルを測る溝で、溝の肩には杭や矢板を密に打ち込んだ護岸がなされていました。溝からは古式土師器の細片が上~下層まで密に出土しており、その型式などから溝の時期は概ね古墳時代初頭と推定されます。
護岸の状況からこの溝は、周辺で行われていたと考えられる水田耕作に伴う水路の可能性が推察され、周辺の土地利用状況を考える上で重要な資料といえるでしょう。

溝SDO3の写真

写真:溝SDO3(南より)

溝SDO3の矢板の写真

写真:溝SDO3の矢板(北より)

纒向遺跡第148次調査(矢塚古墳第2次調査) 〔NO.15〕

今回の調査は、纒向型前方後円墳の一つとされる矢塚(やづか)古墳の墳形確認を主な目的として行いました、その結果、これまで水田の畦(あぜ)の形から、その存在や形状が推測されていた前方部の墳丘を、初めて発掘調査で確認する事ができました。
墳丘については、トレンチの北端から約2分の3の範囲で黒色と黄灰色のブロック土層で構成される盛土を検出し、その南端で墳丘の裾を確認しました。また盛土は、断ち割り調査を行ったところ、当初の予想以上の約1.5メートルの厚みが残存している事がわかりました。
周濠については、墳丘の裾からトレンチ南端までの約8.5メートル分を検出しました。ただし周濠外側の立ち上がりは確認できなかったため、今回の調査では前方部周辺の周濠の幅や形を推定できるだけの資料は得られませんでした。埋土中より出土した土器の時期は、布留形甕がなく、五様式系甕が多く見られる事などから、第1次調査の周濠出土土器と同じ庄内3式期になると考えられます。

 

矢塚古墳空撮全景の写真

写真:矢塚古墳空撮全景(上が北)

纒向遺跡第147次調査(東田大塚古墳第4次調査) 〔NO.14〕

東田大塚(ひがいだおおつか)古墳は、市城北部に広がる纒向遺跡の西側部分に位置しています。これまでに墳丘北側で3次にわたる発掘調査が実施され、古墳時代初頭(3世紀後半)の築造であることや、墳丘北側に幅20メートル前後の周濠状遺構が存在することが明らかになっています。
しかし墳丘の形態については不明な部分が多く、現状では地形や地割を根拠として、全長100メートル前後の前方後円墳であると推定されています。
墳丘の南西側で実施した今回の調査では、東田大塚古墳の前方部を遺構として初めて確認し、これにより東田大塚古墳が前方後円墳であることが確実となりました。
また墳丘南側にも周濠状遺構が巡ることが明らかとなり、東田大塚古墳の全体像を復元する上で重要な手掛りを得ることができました。
纒向遺跡には出現期の前方後円墳が複数存在しています。これらの古墳の全体像を明らかにすることは、日本列島における前方後円墳の出現を考える上できわめて重要な意義を有しています。今回の調査は、そうした大きな課題に向けての一歩として位置付けられるものと言えるでしょう。

東田大塚古墳全景の写真

写真:東田大塚古墳全景(左上が北〉

周濠状遺構と前方部の写真

写真:周濠状遺構(中央)と前方部(奥)

詳しくは発掘調査報告(220回~229回)ページの発掘調査現場から(229回)、東田大塚古墳前方部の調査をご覧ください。

発掘調査報告(220回~229回)

こうぜ古墳群第1次調査〔NO.5〕

桜井市街地の南東に位置する鳥見山(とみやま)には、中世から近世にかけての城郭跡のほか、多数の古墳が存在しています。特に南麓の尾根上には、秋殿南古墳や舞谷古墳群など、後期・終末期の古墳が顕著に分布することが知られますが、こうぜ古墳群もまたこれらと同様の立地状況を示しています。
今回の調査では、こうぜ古墳群の測量調査に加えて、北側に続く尾根上で発掘調査を行いました。その結果こうぜ古墳群は、後円部と前方部にそれぞれ横穴式石室を有する前方後円墳(1号項、全長約50メートル)、盗掘の痕跡が見られる全長10メートル前後の古墳2基(2号墳、3号墳)で構成されることが明らかになりました。
このうち1号墳は横穴式石室の形態から6世紀後半の築造と考えられ、桜井市城の前方後円墳の中では、珠城山(たまきやま)古墳群とともに最も新しい時期に位置付けることができます。こうぜ1号墳は、この地域における前方後円墳の終焉(しゅうえん)を考える上で注目すべき古墳であると言えるでしょう。

 

こうぜ1号墳

写真:こうぜ1号墳(北より)

後円部石室開口部

写真:1号墳 後円部石室開口部(南より)

高田寺谷1号墳 〔NO.16〕

桜井市大字高田の南側に広がる丘陵には高田寺谷古墳群をはじめとし、徳利塚古墳、耳塚古墳、植松古墳群などの後期~終末期古墳が点在しています。調査をおこなった高田寺谷1号墳は横穴式石室を内部主体にもつ直径13~15メートルほどの円墳です。
後世の石の抜取りにより、石室の上半部は破壊されていましたが、基底部の石積みは残されており、石室床面も埋葬当時の状況をとどめていました。
石室の規模は玄室幅1.8メートルで長さ3メートル、羨道(せんどう)幅1.2メートルで長さ1.8メートル以上です。玄室には奥から約3分の2の範囲に石が敷かれ、その上に須恵器(杯・高杯・はそう・壷など)や土師器(杯・壷など)、耳環(じかん)、刀子、鉄鏃、木棺に使用されていた鉄釘などが出土し、また玄門部付近には小型の短頸壷(たんけいつぼ)が出土するなど、埋葬した当時の様子がうかがわれ、葬送習俗を考える上で貴重な成果です。これらの出土遺物から、1号墳は6世紀後半に築造されたものと考えられます。

横穴式石室の写真

写真:横穴式石室(南より)

遺物出土状況

写真:遺物出土状況(北西より)

風呂坊古墳群第2次調査 〔NO.12〕

風呂坊(ふろぼう)古墳群は、桜井市街地の南側に位置する安倍山丘陵の南端部に立地しています。昭和33年の宅地造成の際にその存在が明らかとなり、横穴式石室を有する3基の古墳から、土器類のほか、金銅製釵子(かんざし)や銀製釧(くしろ)、山梔(くちなし)玉、耳環(じかん)、鉄釘などが出土しました(第1次調査)。
このうち釵子は同じ安倍山丘陵上に位置する稲荷西2号墳(桜井公園2号墳)でも出土しており、渡来系の遺物として注目されています。残念ながらこれらの古墳は調査後の造成工事により失われ、現状では最上部に位置する古墳1基が残存するのみとなっています。
第2次調査は、かって古墳が存在したと推定される造成地において実施されました。調査の結果、上記のような遺物を出土した古墳の残存は確認できませんでしたが、丘陵斜面を覆う流出土中より多くの弥生土器片が出土しました。いずれも小片であり完形に復元できるものはありませんが、弥生時代後期後半の時期が考えられます。
安倍山丘陵上では、丘陵北側斜面で実施された桜井公園遺跡群第5次調査においても同時期の遺物が出土しており、丘陵上に当該期の集落が存在したことが推定されています。
今回の調査成果は、安倍山丘陵上の弥生時代集落が丘陵北側のみならず、南側にも広がっていた可能性を示唆するものと言えるでしょう。

第1トレンチ全景の写真

写真:第1トレンチ全景(南東より〉

城島遺跡第42次調査〔NO.10〕

初瀬(はせ)川と粟原(おおばら)川に挟まれた扇状地上に広がる城島(しきしま)遺跡一帯は、奈良・大阪と伊勢地域を結ぶ交通の要衝として、古くから重要な位置にありました。
周辺にはかって多くの木材工場や貯木場が見られましたが、近年はこれらの跡地に住宅や店舗が建ち並び、付近の景観は様変わりしつつあります。
城島遺跡ではこうした開発などに伴って40次を超える発掘調査が行われ、古墳時代から飛鳥時代(3~7世紀)を中心とする時期の遺構・遺物が多数見つかっています。
平成18年の10月に遺跡の西側で実施した第42次調査においても、7世紀代の遺構が複数確認されました。そのうちの一つである掘立柱建物は、一辺80センチメートル前後の比較的大きな方形柱穴を持っており、建物自体も大きなものであった可能性が考えられます。
城島遺跡付近には、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)の伝承地が存在しています。今回確認された遺構はこれより新しい時期のものですが、こうした伝承の存在や発掘調査成果は、この一帯が6~7世紀代において重要な地域であったことを物語っています。

第1トレンチ全景の写真

写真:トレンチ全景(北より)

詳しくは発掘調査報告(220回~229回)ページの発掘調査現場から(228回)、城島遺跡の発掘調査をご覧ください。

発掘調査報告(220回~229回)

安倍寺跡第20次調査 〔NO.8〕

安倍寺は豪族阿倍氏の氏寺として阿倍内麻呂(倉梯麻呂:くらはしまろ)によって建立されたと考えられる7世紀中頃に造営された古代寺院です。今回の調査地点は安倍寺域北縁にあたるところで、このあたりの土地利用状況を解明することを主な目的として調査を行いました。
調査では平安時代~藤原京期にかけての遺構が検出されました。このうち平安時代(10世紀代)の瓦溜(かわらだ)め遺構はトレンチの西半分を占める大きな遺構で膨大な量の瓦のほか直径5.6センチメートルの小型の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が1面出土しました。
また西に拡張して調査した部分で見つかった藤原京期~奈良時代初頭と考えられる溝SDO3からは、土器・瓦類のほか、木簡(もっかん)、墨書木薄片(木簡削り屑)、木製品、円面硯(えんめんけん)、転用硯(てんようけん)、鞴羽口(ふいごはぐち)、鉱滓(こうさい)、滓(さい)や漆膜(うるしまく)の付着した土器片、漆塗木製鉢、墨書や線刻された土師器片、製塩土器、和同開珎(わどうかいほう)、鉄釘などが出土しています。
これらは木簡などに「寺」や「仏聖」の文字が見られることから安倍寺に関する遺物と考えられ、近隣に寺の事務的な職務を行う施設や工房などが所在した可能性を示す資料として注目されます。

 

溝SDO3の写真

写真:溝SDO3(南より)

長谷寺第2次調査 〔NO.6〕

境内地内で行った第2次となる発掘調査で、建物の礎石とそれに伴う整地層の他、地山直上からも遺構を検出する事ができました。
長谷寺に残る18世紀中頃の絵図によると、調査地がある平場には、現在の東側とは異なり北側に入り口を持つ建物が描かれています。また明治24年の実測図には、同じ平場に如意輪精舎(にょいりんしょうじゃ)の名前がある事から、今回検出した礎石立ちの建物はこれらに該当する可能性が高いと考えられます。
遺物は、礎石を据えた土台となる整地層と礎石を覆う土層から、多量の陶磁器片や土師器片をはじめ、キセル・匙(さじ)などの銅製品、多量の寛永通宝、硯(すずり)などの石製品が出土しています。
地山直上からは、直線的に並ぶピットやマサ土で埋められていた土坑などが確認できました。これらの時期は出土した瓦器わんから13世紀後半~14世紀前半と考えられます。

1トレンチ礎石立ち建物全景の写真

写真:1トレンチ礎石立ち建物全景(北より)

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