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平成20年度速報展

『平成19年度発掘調査速報展』

平成20年6月11日~10月5日 桜井市立埋蔵文化財センター
-夏季企画展「平成19年度発掘調査速報展」『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋- 2008年6月

1.はじめに

桜井市内には、纒向遺跡をはじめとし全国的にも貴重な文化遺産が数多く存在します。当センターでは、市民の皆様にそれらの文化財に対し深い理解と親しみを得ていただくために、遺跡写真、遺物等の展示や公開に取り組んでいます。
今回の展示は、平成19年度に行われた市内遺跡の発掘調査の成果を紹介しています。
平成19年度の発掘調査は計18件行われ、纒向遺跡の日本最古の木製仮面、桜井公園遺跡群の環壕、大福遺跡の銅鐸片などをはじめとし、ここに紹介するような大きな成果が得られました。
これらを通じて桜井市の歴史を知っていただき、埋蔵文化財に親しみを感じていただければ幸いです。桜井の最新の調査成果を是非ご覧ください。

平成19年度発掘調査一覧

  1. 纒向遺跡第149次(調査期間):平成19年4月2日~5月24日・6月15日(調査面積):213平方メートル
  2. 茅原遺跡第12次(調査期間):平成19年4月17日~4月20日(調査面積):40平方メートル
  3. 安倍寺遺跡第16次(調査期間):平成19年5月7日~7月6日(調査面積):193平方メートル
  4. 風呂坊古墳群第3次(調査期間):平成19年6月4日~6月21日(調査面積):9平方メートル
  5. 纒向遺跡第150次(調査期間):平成19年6月28日~7月10日(調査面積):20平方メートル
  6. 大福遺跡第26次(調査期間):平成19年6月28日~平成20年3月25日(調査面積):1815平方メートル
  7. 纒向遺跡第151次(箸墓古墳周辺第17次)(調査期間):平成19年7月9日~8月10日(調査面積):55平方メートル
  8. 桜井公園遺跡群第6次(調査期間):平成19年7月9日~11月9日(調査面積):127.8平方メートル
  9. 城島遺跡第43次(調査期間):平成19年7月17日~20年2月4日(調査面積):1710平方メートル
  10. 大藤原京関連遺跡第50次(調査期間):平成19年8月6日~9月5日(調査面積):105平方メートル
  11. 纒向遺跡第152次(調査期間):平成19年8月28日~9月20日(調査面積):144平方メートル
  12. 大藤原京関連遺跡第51次(調査期間):平成19年10月5日~10月12日(調査面積):74平方メートル
  13. 吉備遺跡第15次(調査期間):平成19年11月5日~12月21日(調査面積):357平方メートル
  14. 東新堂遺跡第11次(調査期間):平成19年11月12日~12月10日(調査面積):150平方メートル
  15. 纒向遺跡第153次(東田大塚古墳第5次)(調査期間):平成19年12月10日~平成20年2月25日(調査面積):68平方メートル
  16. 纒向遺跡第154次(矢塚古墳第3次)(調査期間):平成19年12月17日~平成20年3月13日(調査面積):118平方メートル
  17. 谷遺跡第23次(調査期間):平成20年2月4日~3月13日(調査面積):385平方メートル
  18. 大福遺跡第27次(調査期間):平成20年3月10日~3月31日(調査面積):120平方メートル

広報「わかざくら」~発掘調査現場から~ を参照

2.平成19年度の調査

纒向(まきむく)遺跡第149次調査 〔NO.1〕

桜井市北部に位置する纒向遺跡は、古墳時代前期の大規模な集落遺跡としてよく知られています。これまでに実施された140次を超える調査では重要な遺構や遺物が多数確認されており、この地に当時の日本列島におけるきわめて重要な集落が存在したと考えられています。
遺跡のほぼ中央に位置する太田池で実施された第149次調査では、古墳時代初頭頃(3世紀)の遺構が複数確認されました。池の堤部分では多くの木製品が出土した落ち込みや、木製の井戸枠を持つ井戸が検出されました。また池底部分では、鎌(かま)の柄(え)や盾(たて)などの木製品とともに木製仮面が出土した土坑(どこう)が見つかりました。
木製仮面は長さ26センチメートル、幅21.5センチメートル、厚さ0.6センチメートル前後で、アカガシ亜属製の鍬(くわ)を転用してつくられています。口は鍬の柄(え)を差し込む孔(あな)をそのまま利用しており、両目部分の孔は転用時に開けられたものと考えられます。鼻は鍬の隆起部を削って整形したもので、径0.5センチメートルほどの鼻孔(びこう)が表現されています。また眉毛は線刻により表現されています。その大きさから、実際に顔につけることを意図してつくられた可能性が高いと考えられます。しかし紐孔(ひもあな)などが見られないことから、手に持って顔を覆ったものと推定されます。
この木製仮面は共に出土した土器から3世紀前半頃のものと考えられます。その性格はよくわかっていませんが、鍬を転用している点に注目するなら、農耕に関連する祭祀の一場面で使用された可能性が考えられます。当時の祭祀形態を考える上で注目すべき資料であると言えるでしょう。

木製仮面出土坑の写真

写真:木製仮面出土坑

古墳時代前期の井戸の写真

写真:古墳時代前期の井戸

詳しくは【発掘速報】纒向遺跡出土の日本最古の木製仮面ページ、発掘調査報告(230回~239回)ページの発掘調査現場から(231回)、纒向遺跡の木製仮面をご覧ください。

発掘報告:纒向遺跡出土の木製仮面

発掘調査報告(230回~239回)

纒向遺跡第151次(箸墓(はしはか)古墳周辺第17次)調査 〔NO.7〕

纒向遺跡の南側に位置する箸墓古墳は、最古の定型化した前方後円墳として全国的に知られています。墳丘部分は現在もよく残されていますが、周濠(しゅうごう)は現状では観察することができず、周辺の発掘調査成果からその形態が明らかになりつつあります。
後円部の南側で実施した第151次調査では、古墳時代初頭頃(3世紀中頃)に形成されたと見られる腐植土(ふしょくど)層・粘質土層が確認されました。これらは箸墓古墳の築造時期と前後する時期のものであり、周濠堆積の一部である可能性が考えられます。小規模な調査ではありましたが、後円部南側の周濠形態を考える上で一つの手がかりとなる成果を得ることができました。

トレンチ南側の土層断面の写真

写真:トレンチ南側の土層断面

纒向遺跡第153次(東田大塚(ひがいだおおつか)古墳第5次)調査 〔NO.15〕

桜井市北部に位置する東田大塚古墳は、古墳出現期である3世紀代の前方後円墳として知られています。今回の調査は、墳丘規模の確認を目的として、墳丘の西側部分で実施しました。
その結果、墳丘の端は検出できませんでしたが、墳丘盛土の広がりを確認することができました。これにより、前方部が従来考えられていたよりも長いものであることが明らかとなりました。墳丘の全長は約120メートル、前方部長は50メートル前後と考えられます。
古墳出現期の前方後円墳のなかには、前方部が極端に短いものが多く見られます。これらは「纒向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)」と呼ばれ、東田大塚古墳もその一例と考えられてきました。しかし今回の調査により、前方部が比較的長いものであることが確認され、纒向型前方後円墳とは異なる墳丘形態を持つことがわかりました。出現期の前方後円墳におけるこうした墳丘形態の違いがどのような意味を持つのか、今後検討していく必要があります。

東田大塚古墳と調査区の写真

写真:東田大塚古墳と調査区

墳丘盛土断面の写真

写真:墳丘盛土断面

詳しくは発掘調査報告(230回~239回)ページの発掘調査現場から(234回)東田大塚(ひがいだおおつか)古墳の範囲確認調査、発掘調査報告(220回~229回)ページの発掘調査現場から(229回)、東田大塚古墳前方部の調査をご覧ください。

発掘調査報告(230回~239回)

発掘調査報告(220回~229回)

纒向遺跡第154次 (矢塚(やずか)古墳第3次)調査 〔NO.16〕

昨年度に引き続いて矢塚古墳の範囲確認に伴う発掘調査を行いました。今年度は特に前方部の形状と墳丘全体の規模を確認するため、前方部の北及び西側周辺にトレンチを設けました。その結果、前方部北西隅と北側の周濠、前方部北側の墳丘盛土の一部、前方部前面(中世の遺構により一部削られている)を確認する事ができました。これに基づいて前方部の長さを復元すると約28メートル以上、古墳の全長は約93メートル以上となりました。
これらの成果と、前方部前面側から検出した周濠外側の位置と確認した墳丘の距離から前方部の本来の長さを考えると、矢塚古墳は纒向型前方後円墳の規格である全長3:後円部径2:前方部長:1の比率をもっていた可能性が非常に高いと思われます。
遺物については、周濠から古式土師器(こしきはじき)片が若干出土しました。布留形甕(ふるがたかめ)がないなど昨年度と同じ状況が見られたため、今のところ築造時期については第1次調査で周濠から出土した土器群から、庄内(しょうない)3式期(3世紀中頃)より新しくなることはないと考えられます。

矢塚古墳と調査区の写真

写真:矢塚古墳と調査区

詳しくは発掘調査報告(230回~239回)ページの発掘調査現場から(235回)矢塚古墳の範囲確認調査、発掘調査現場から(230回)、矢塚古墳(纒向遺跡第148次)の発掘調査をご覧ください。

発掘調査報告(230回~239回)

大福(だいふく)遺跡第26次調査 〔NO.6〕

今回の調査は市道の延伸に伴うもので、大福小学校の北西側で行われました。大福遺跡は、過去に埋納された銅鐸(どうたく)が出土するなど弥生時代後期の集落遺跡として有名です。また西側には、弥生時代前期未から後期まで続く環濠集落(かんごうしゅうらく)である坪井(つぼい)・大福(だいふく)遺跡に隣接しています。
今回の調査では、弥生時代中期~藤原京期までの遺構がみられ、その中でも、弥生時代中期~古墳時代初頭にかけてのものが、大きな成果としてあげられます。
弥生時代中期(前1世紀)では、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が6基以上検出され、さらに調査地周辺に広がることから大規模な墓域となることが想定されます。これらは、坪井・大福の環濠集落の人々の墓域であると考えられ、当時の集落と墓域の関係がわかる好例となりました。
弥生時代後期(2世紀)では、大規模な溝が4本検出され、そのうちの一つは、溝の肩の角度が急ないわゆるV字溝と呼ばれるものでした。現調査区の近辺の調査例がないため、溝がどのように広がっていくかはわかりませんが、土器が多く出土した溝もあり、近辺に集落があったことが想定されます。
そのような溝が埋没したあとに、弥生時代後期末~古墳時代初頭(3世紀初頭)の土器が多量に出土した土坑(どこう)が2基検出されました。そのうちの一つからは多量の土器とともに、銅鐸片、鋳造(ちゅうぞう)用の炉(ろ)に空気を送るための送風管(そうふうかん)が出土し、また土坑周辺からは鋳型外枠(いがたそとわく)片が出土しました。このような状況から銅鐸を破砕し、それを原料として別の青銅製品に造り変えていた可能性が考えられました。銅鐸祭祀の終焉、弥生時代から古墳時代への変遷を考える上で、貴重な資料となります。

弥生時代中期の方形周溝墓の写真

写真:弥生時代中期の方形周溝墓

銅鐸片出土土抗の写真

写真:銅鐸片出土土抗

大福遺跡第27次調査 〔NO.18〕

第26次調査地より南へ約300メートル離れた場所で実施した第27次調査では、自然流路や土坑、溝など、古墳時代の遺構が複数確認されており、古墳時代前期(4世紀)の土師器が多数出土しました。このほか藤原京期~奈良時代(8世紀)の井戸が検出されています。
確認された井戸には、横長の板材を組み上げた横板組(よこいたぐ)みの井戸粋(いどわく)が残存していました。その内法は一辺約65センチメートルで、横板は底から2~3段分が残存していました。それぞれの板材は、両端に切り込まれた仕口(しぐち)によりしっかりと組み合わされていました。またこの井戸は古墳時代の流路部分に掘られていました。湧水(ゆうすい)が得やすい場所を選んで井戸を設けた、当時の人々の知恵を感じることができます。

横板組みの井戸の写真

写真:横板組みの井戸

桜井公園(さくらいこうえん)遺跡群第6次調査 〔NO.8〕

この調査は、桜井公園が位置する大字谷の安倍山丘陵東斜面で行いました。その結果、斜面に沿って平行に掘られた弥生時代後期前半(2世紀前半)の溝を3条確認する事ができました。県下で3重の溝を巡らす丘陵上の集落は初めての例となります。溝からは多量の土器が出土しましたが、内側の溝になるほど出土量が増す傾向が見られたため、その溝の周辺から丘陵頂上にかけて居住域があると推定されます。
安倍山丘陵では後期前半の土器が出土する遺構が見つかったのは今回が初めてで、これまではそのほとんどが後期後半(2世紀後半)のものでした。このため今回確認した溝3条が丘陵全体を巡る大規模なものであったとするには今のところは証拠が乏しく、今ではほとんどが失われている丘陵東側の斜面を中心とした小規模な集落であったとも考えられます。
これまで奈良盆地を望む丘陵上にある集落の中で、防御性を重視した多重の溝を巡らすものは1例しかありませんでした。また大阪湾沿岸では前期(前3世紀)から続く低地の大規模な集落が中期末~後期初頭(1世紀後半)になくなり丘陵上に移るのに対して、大和では後期前半まで残ります。このため弥生時代中期末~後期初頭以降に畿内と周辺地域で増加する丘陵上の集落に象徴される緊張状態は、大和、特に盆地内では比較的弱かったと考えられてていました。しかしながら小規模である可能性はあるものの、盆地全域を見渡せる場所での高い防御性を意識した集落の確認は、大和も他の畿内一帯と同様に強い緊張感に包まれていた事を示す証拠になると思われます。

上空からみた調査区の写真

写真:上空からみた調査区

環壕の土器出土状況の写真

写真:環壕の土器出土状況

詳しくは発掘調査報告(230回~239回)ページの発掘調査現場から(237回)風呂坊古墳群の発掘調査をご覧ください

発掘調査報告(230回~239回)

風呂坊(ふろぼう)古墳群第3次調査 〔NO.4〕

桜井市街地南側の安倍山丘陵に位置する風呂坊古墳群は、かって金銅製釵子(こんどうせいかんざし)などの渡来系(とらいけい)遺物が出土したことで知られています。第3次調査では、地形測量により径約20メートルの円墳(4号墳)の存在が明らかとなり、またその東側部分では木棺墓(もっかんぼ)が見つかりました。この木棺墓からは、棺の緊結に使用された鉄釘や、棺外に副葬された土器が出土しており、これらの遺物から7世紀前半頃の時期が考えられます。
この木棺墓から北東約70メートルの位置には、大型の家形石棺(いえがたせっかん)で知られる艸墓(くさはか)古墳が存在します。時期的にも近接するものであり、両者の関係性が注意されるところです。

木棺墓全景の写真

写真:木棺墓全景

安倍寺(あべでら)遺跡第16次調査 〔NO.3〕

安倍寺遺跡は、国史跡安倍寺跡の周辺に広がる遺跡で、5世紀~8世紀の遺構、遺物が多く見られます。調査地は安倍寺遺跡の西よりで、南北2箇所に調査区を設けました。
そのうち北側のトレンチでは、掘形が約1.2メートル四方もある柱穴が、3メートル間隔で5基みつかりました。柱穴の中には、直径約40センチメートルもある大きな柱材も残っているものもありました。建物の一部が発見されたにすぎませんが、非常に大形の建物だと思われます。それとは別に、川原石を敷き詰めた敷石状のものや多数の柱穴、区画溝などがありました。これらは土層の関係や遺物などから、古墳時代後期から藤原京期(6世紀~8世紀初頭)にかけて、数回にわたって建物が建て替えられたと考えられます。
一方、南側のトレンチからも、同様の規模の柱穴が5基検出することができ、大形の建物がもう一棟あったことが想定されます。
安倍寺跡に代表されるように、この地域は安倍氏と関連の深い遺跡が周辺に分布しています。今回の成果も安倍氏の館跡を想像させるもので、今後の周辺の調査に期待されます。

掘立柱建物の南側の写真

写真:掘立柱建物(南)

掘立柱建物の北側の写真

写真:掘立柱建物(北)

吉備遺跡第15次調査 〔NO.13〕

吉備遺跡第15次調査では、弥生時代中期の溝、8世紀初頭の溝や掘立柱建物・柱穴群、8世紀中頃の井戸などが検出されました。
このうち8世紀初頭の南北溝2条はいずれも藤原京の条坊区画内をさらに区画するために設けられた溝とみられ、埋土から土器類のほかに木簡(もっかん)や刷毛(はけ)・糸巻(いとまき)の横木(よこぎ)といった木製品なども出土しました。これら遺物は当地の近辺にあった施設で使われていたものと思われます。
また8世紀中頃の井戸は、縦2メートル以上、幅約60センチメートルの一枚板の縦板4枚を横桟(よこさん)と釘を使って組み合わせた井戸枠を有しています。また井戸枠の四隅では直径20センチメートルの柱穴が検出され、柱根(ちゅこん)も残ることから、覆屋状(おおいやじょう)の構造物が設けられていたと推定されます。
井戸枠内の埋土からは「甲」や「大」などと墨書(ぼくしょ)された完形品を含む土器類のほか、横櫛(よこぐし)・人形(ひとがた)・扇(おうぎ)や刀形(かたながた)といった木製品や滑石製(かっせきせい)の用途不明の石製品などの祭祀遺物が多数出土しました。

掘立柱建物の写真

写真:掘立柱建物

8世紀中頃の井戸の写真

写真:8世紀中頃の井戸

谷(たに)遺跡第23次調査 〔NO.17〕

谷遺跡第23次調査では、幅3メートルの南北トレンチを3本設定し調査を行いました。このうち最も東に位置する第1トレンチでは古墳時代後期の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)3棟をはじめ、溝や柱穴群といった遺構が検出されました。
竪穴住居はトレンチの制約のため全体がわかるものはありませんが、3棟とも方形住居でした。いずれも削平が進んでおり、3棟のうち2棟は周壁溝(しゅうへきこう)と柱穴が辛うじて残存する状況でした。周壁溝の埋土などから須恵器の杯身(つきみ)などの土器片が出土しており、その年代観から竪穴住居の時期は6世紀後半と推定されます。竪穴住居のほかには柱穴が約70基確認されました。これらの埋土からは竪穴住居と同種な土器が出土しており、同時期に属するものと考えられます。

古墳時代後期の竪穴住居の写真

写真:古墳時代後期の竪穴住居

城島(しきしま)遺跡第43次調査 〔NO.9〕

城島遺跡は、すぐ南側に巨大前方後円墳である桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳(3世紀末)が位置することや周辺に欽明天皇(きんめいてんのう)の宮である磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)の伝承地であることから歴史的に重要な地域だと考えられています。
調査は桜井高校の北側の貯木場跡地で行われました。古墳時代後期(6世紀)の土坑からは、土器とともに碧玉(へきぎょく)の小片が多数出土しており、周辺で玉造りが行われていた可能性があります。
また、胴回りが約1メートル以上もある須恵器大甕(すえきおおがめ)(6世紀)が地面に据えられているのも検出されました。甕底部大きく穿孔(せんこう)されており、甕内部から滑石製(かっせきせい)の臼玉(うすだま)が5点、馬歯なども出土していることなどから、祭祀が行われた跡だと考えられます。
そのほか弥生時代後期(2世紀)や古墳時代前期(4世紀頃)の溝や柵状にならぶ柱穴(7世紀以降)などが検出されているなど、多岐にわたる成果が得られ、城島遺跡の変遷を考える上で重要な成果となりました。

古墳時代前期の溝の写真

写真:古墳時代前期の溝

須恵器大甕(すえきおおがめ)

写真:須恵器大甕(すえきおおがめ)

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