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平成22年度速報展

平城遷都1300年記念事業『平成21年度発掘調査速報展16』

平成22年6月25日~10月3日 桜井市立埋蔵文化財センター

-夏季企画展『50cm下の桜井』解説書 より抜粋- 2010年6月

はじめに

桜井市立埋蔵文化財センターでは、市民の皆様に文化財に対する深い理解と親しみを得ていただくために、遺跡・遺物等の公開と展示に取り組んでいます。今回は平成21年度に行なわれた市内遺跡の発掘調査の成果を紹介する展示を企画しました。
昨年度は3世紀では日本最大の大型建物が纒向(まきむく)遺跡で発見され、これまでの調査で見つかっているものを含めると、4棟の建物と柵が同じ軸線を使って規格的に配置されていることが判明しました。
また、帆立貝式(ほたてがいしき)古墳として著名な茅原大墓(ちはらおおばか)古墳の調査では円筒埴輪(えんとうはにわ)列や葺石(ふきいし)を検出し、墳丘構造や築造工程などが解明されつつあります。
それらをはじめ、ここに紹介する成果は桜井市の歴史を読み解く上で貴重な資料となります。そのため、皆様にもこの展示を通じて桜井の文化財へ興味・関心をもっていただき、その保護にご協力下されば幸いです。では、最新の調査成果を是非ご覧ください。

平成21年度発掘調査一覧

  1. 纒向遺跡第163次(箸墓古墳周辺第19次) (調査期間):平成21年4月8日~5月30日 (調査面積):302平方メートル
  2. 纒向遺跡第164次(堂ノ後古墳第1次) (調査期間):平成21年6月25日~7月31日 (調査面積):18.8平方メートル
  3. 纒向遺跡第165次 (調査期間):平成21年7月29日~8月10日 (調査面積):20平方メートル
  4. 大福遺跡第29次 (調査期間):平成21年8月4日~8月9日 (調査面積):31.2平方メートル
  5. 纒向遺跡第166次 (調査期間):平成21年9月1日~12月28日 (調査面積):390平方メートル
  6. 纒向遺跡第167次 (調査期間):平成21年9月3日~10月5日 (調査面積):90平方メートル
  7. 茅原大墓古墳第3次 (調査期間):平成21年10月23日~22月2/5日 (調査面積):204平方メートル
  8. 河西遺跡第6次 (調査期間):平成22年1月18日~2月8日 (調査面積):49.5平方メートル
  9. 三輪松之本東遺跡第3次 (調査期間):平成22年2月2日~2月12日 (調査面積):75平方メートル

広報「わかざくら」~発掘調査現場から~ を参照

平成21年度の調査

茅原大墓(ちはらおおはか)古墳 第3次調査 〔NO.7〕

桜井市北部に位置する茅原大墓古墳は、帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳の代表的な事例として昭和57年に国史跡に指定されています。
全長約85メートルに復元される墳丘は現在でもよく残存しており、後円部径約70メートルに対し、前方部長は約15メートルと極端に短い形態であるのが特徴です。また墳丘の西側にある細長い池は、周濠(しゅうごう)の痕跡であると考えられています。
現在桜井市では、この古墳を多くの方々に見学していただけるような史跡整備を計画しています。それにさきがけて、平成20年度より古墳の形態を確認するための発掘調査を実施しており、昨年度の調査でもいくつかの新しい成果が得られました。

平成21年度の第3次調査では、計5ケ所に調査区を設定して実施しました。その結果、後円部の墳頂と2段目の平坦面で円筒埴輪(えんとうはにわ)列が確認されました。円筒埴輪は上部が失われていますが、底部径が40センチメートル以上の大きなものが含まれていることがわかりました。このほか後円部と前方部の接続部分では葺石(ふきいし)が見つかりました。これにより、前方部が当初から現状のように低いものであったことがわかりました。
出土遺物としては円筒埴輪のほか朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)や蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)などの破片があり、これらから茅原大墓古墳は古墳時代中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭頃)に築造されたと考えられます。

桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、古墳時代初頭(3世紀)から相次いで全長200メートル以上の大型前方後円墳が築造されました。これらの古墳は大王墓と考えられ、当時の政権勢力の存在がうかがえます。しかし前期後半以降(4世紀後半~)には奈良盆地北部や西部に大型前方後円墳が築造されるようになり、桜井市周辺の勢力が衰退していったと推定されます。茅原大墓古墳はその衰退期に築造された古墳であり、この地域の大型墳系譜の最終段階に位置付けられます。

茅原大墓古墳は決して小さな古墳ではありません。しかし前段階の大型前方後円墳と比較すると規模が小さく、墳形が帆立貝形となっている点では、この地域の勢力衰退の様子を象徴的に表しています。茅原大墳古墳は、当時の政権中枢における勢力変動を示す重要な資料であると言えるでしょう。

墳丘上の調査区の写真

墳丘上の調査区(前方部側より)

円筒埴輪列の写真

円筒埴輪列

後円部2段目の埴輪列の写真

後円部2段目の埴輪列

纒向遺跡 第166次調査 〔NO.5〕

纒向遺跡第166次調査は、昭和53年の第20次調査と一昨年度に実施した第162次調査で検出された遺構群より、さらに東側の様子を解明するための調査であります。
本調査地内は庄内式古相段階(3世紀前半)に広範囲にわたる整地が行なわれており、その整地土面に建物Cと建物Dの2棟が建てられていました。建物Cは第162次調査において、建物の西側柱列と北側の棟持柱が検出されていたもので、今回の調査によって全体の規模が明らかとなりました。

この建物は南北の棟持柱が見つかったことで、南北3間×東西2間(約8メートル×5.3メートル)の規模の近接棟持柱建物(きんせつむなもちばしらたてもの)となることがわかりました。さらに、建物Dは建物Cより6.4メートル程東側に位置し、3世紀代では日本最大の規模をもつ大型建物となりました。
その大きさは調査の状況や建築学的な検討から南北4間(19.2メートル)×東西4間(12.4メートル)、床面積238.08平方メートルとして復元でき、それぞれの柱間は南北間で4.8メートル前後、東西間で3.1メートル前後になります。
建物の柱穴は全て一辺1メートル~1.7メートルの方形プランのもので、柱材は全て抜き取りが行われ、柱穴内には残っていませんが、残された柱の痕跡からその太さは32センチメートル前後のものと推定されます。
また、南北の柱間のほぼ中央には径40センチメートル前後、柱の太さ約15センチメートルの円形柱穴が並ぶことから、建物の床を支える束柱をもつことが考えられます。

建築学博士の黒田龍二氏(神戸大学)の復元によれば、高床の高さが約2メートル、建物全体の高さが約10メートルにもなる巨大な建造物であったことが窺え、弥生時代の大型建物に比べると柱材は細いものですが、建物自体はより高度な建築技法を用いて建てられています。そのため、纒向遺跡における中心的な役割を果たす建物の可能性が高いといえます。

今回の調査では、第20次・第162次調査で確認された建物A・Bを含め4棟の建物の存在が明らかとなり、この建物群と柵と考えられる柱列が、方向と軸線を揃えて建築された状況が確認されました。
方位は建物・柱列(柵)などすべての構造物が真北に対して約5度西に振れており、推定される建物群の軸線は東西方向に通るものです。
このような複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群は、国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の集落などとは完全に一線を画する構造を持つものであります。
こうした建物群の配置などの変貌は、これまで墳墓の変化でしかわからなかった弥生時代から古墳時代への移り変わりを別の視点から窺うことができ、学術的に大きな成果といえるでしょう。

また、これまでの周辺の調査成果から推測すると、一連の調査対象となった微高地上が3世紀前半代に纒向遺跡の中心的な居館域であった可能性が高く、地形からの推定ではこの太田北微高地上に東西150メートル×南北100メートル前後の居館区域が存在するものと想定されます。これら纒向遺跡の古墳時代前期初頭の居館構造は、国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持ちます。

 

纒向遺跡の建物の写真1

建物C(南から)

纒向遺跡の建物の写真2

建物D(南から)

纒向遺跡辻地区の遺構配置図の画像

纒向遺跡辻地区の遺構配置図

纒向遺跡第162次と第166次調査区の写真

纒向遺跡第162次と第166次調査区(真北から)

詳しくは発掘調査報告(240回~249回)ページの発掘調査現場から(246回)纒向遺跡第166次調査(2)~3世紀最大級の大型建物~、発掘調査現場から(245回)纒向遺跡第166次調査(1)~大型建物のその後~をご覧ください。

発掘調査報告(240回~249回)

纒向遺跡現地説明会(平成21年11月14日・15日)

纒向遺跡第166次調査の現地説明会は11月14日と15日の2日間に亘って開催いたしました。初日は前日からの雨の影響で生憎の曇り空でしたが、多くの参加者が訪れ、晴天に恵まれた2日目と合わせると、のべ12,000人以上の考古学ファンが集まりました。
今回は、「卑弥呼の宮殿?」などの見出しが各紙面やテレビなどで取り上げられたこともあり、最大2時間待ちとなるほどの参加者で纒向遺跡が大いに賑わいました。
今後も遺跡の保存・整備に向けての調査を推進し、纒向遺跡の実態解明に努めていきたいと思います。

纒向遺跡現地説明会の模様の写真

現地説明会の模様

纒向遺跡 第163次調査(箸墓(はしはか)古墳周辺第19次) 〔NO.1〕

纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃~後半に築造された最古の定型化した前方後円墳として、また日本列島における最初の大王墓として、全国的にもよく知られている古墳です。
全長約280メートルを測る墳丘部分は、現在倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の大市墓として管理され、調査・立ち入りができません。したがって墳丘の周辺で実施される発掘調査は、箸墓古墳に関する新たな知見が得られる貴重な機会となっています。

こうした発掘調査の成果により、墳丘の周囲をめぐる幅10メートル程度の周濠(しゅうごう)と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構(そとぼりじょういこう)の存在が明らかになりつつあります。
平成21年度に前方部の南側で実施した纒向遺跡第163次調査(箸墓古墳周辺第19次)においても、外濠状遺構の一部が検出されました。前方部南側で確認されたのは今回がはじめてであり、その幅は50メートル以上と大規模なものでした。
またその南端部分では人工的な盛土が確認されました。外濠状遺構が掘削されたのちに、外縁部分が整えられている可能性が考えられます。

箸墓古墳の築造は、日本列島はじまって以来の国家的大事業であったと考えられます。確認された大規模な外濠状遺構は、列島最初の大王の墓にふさわしい、箸墓古墳の壮大な全容を浮かび上がらせました。

箸墓古墳の周濠と外濠状遺構の推定ラインの画像

箸墓古墳の周濠と外濠状遺構の推定ライン

詳しくは発掘調査報告(240回~249回)ページの発掘調査現場から(247回)箸墓古墳の外濠状遺構をご覧ください。

発掘調査報告(240回~249回)

纒向遺跡 第164次調査(堂ノ後(どうのうしろ)古墳第1次) 〔NO.2〕

堂ノ後古墳は纒向古墳群の箸中(はしなか)支群に属し、ホケノ山古墳の西側に隣接する径35~38メートルの古墳です。これまでに天理大学歴史研究会が実施した測量調査と物理探査(註1)や寺沢薫・橋本輝彦らの現地踏査(註2)によって、南東方向に前方部を持った全長62メートル以上の前方後円墳として復元されています。

調査トレンチは復元案における前方部推定位置に設定したところ、トレンチ内を北西-南東方向に軸をもつ前方部と考えられる地山のラインを検出しました。前方部は地山を削り出しによって形成しており、周濠内に径10~20センチメートル程の石材が転落している状況から、当初は葺石が敷かれていたと想定されます。またトレンチの西端では周濠の立ち上がりの一部が確認でき、周濠は幅約10メートル前後、深さ0.4~0.6メートルの規模となります。

墳丘の築造時期はこれまで全くわかっていませんでしたが、今回の調査で周濠内から5世紀後半の円筒埴輪や鶏形埴輪(にわとりがたはにわ)の頭部、須恵器などが出土しています。そのため、堂ノ後古墳は3世紀に栄えた纒向遺跡内に再び古墳が築造され始める5世紀から6世紀の纒向古墳群の一角を担うものであることが、明らかとなってきました。

(註1)天理大学歴史研究会 2005 『弥生』
(註2)寺沢薫・橋本輝彦 2006 「纒向の小規模古墳群雑感」『青陵』120 奈良県立橿原考古学研究所

周濠内出土遺物(鶏形埴輪)の写真

周濠内出土遺物(鶏形埴輪)

詳しくは発掘調査報告(240回~249回)ページの発掘調査現場から(243回)堂ノ後古墳の発掘調査をご覧ください。

発掘調査報告(240回~249回)

纒向遺跡 第165次調査 〔NO.3〕

纒向遺跡は扇状地上に拡がる集落遺跡で、東から流れ込む旧河道によって4つの微高地に分断されており、北から草川(くさかわ)、太田北(おおたきた)、太田、箸中微高地と呼ばれています。
第165次調査は太田微高地上に位置し、鶏形(にわとりがた)埴輪などの形象(けいしよう)埴輪や朝顔形(あさがおがた)埴輪が出土した第42次調査地の西隣で行ない、4世紀の大溝のほか、土坑やピットなどを確認できました。
このピットのひとつから出土した装飾器台は北陸~北近畿の特徴をもったもので、纒向遺跡では数例確認されています。また、これまでの調査で様々な地域の土器が出土している点と合わせて、纒向遺跡の多様性を示す資料と言えます。

4世紀の大溝の写真

4世紀の大溝(東から)

纒向遺跡 第167次調査(矢塚(やづか)古墳第4次) 〔NO.6〕

第167次調査は、第165次調査地の西隣で行われました。この調査では奈良時代後半~平安時代初め(8世紀後半~末)頃の掘立柱建物と柵、土坑のほか古墳時代前期前半(4世紀頃)の溝などを確認しました。
奈良~平安時代の掘立柱建物と柵は、交錯していることや切り合いがあることから、少なくとも2時期に亘って営まれています。土坑は底から水が湧くことや堆積の状況などから、井戸であったと考えられます。
古墳時代前期前半の溝や土坑は、先に行われた第42・165次調査でも同時期の遺構や遺物が出土しており、集落の存在が窺えます。また、注目するべき遺物にピットからまとまって出土した瓦があります。この瓦は掘立柱建物と同時期のものと考えられますが、当時の瓦は官衙(かんが)や寺院などの建物に用いられるものであり、一般家屋に用いられることはありませんでした。

本調査地の南東に九田寺(きゅうでんじ)というお寺があり、ここには墓地中央棺台に転用された石灯篭の基礎が残っています。この石灯篭は、彫刻された蓮華(れんげ)の様式手法から天平末期頃のものと考えられ、今回出土した瓦と時期が近く、周辺に寺院が存在していた可能性があります。

掘立柱建物の写真

奈良~平安時代の掘立柱建物(北から)

瓦の出土状況の写真

瓦の出土状況

九田寺の石灯篭の基礎の画像

九田寺の石灯篭の基礎(『桜井市史』より)

詳しくは発掘調査報告(240回~249回)ページの発掘調査現場から(244回)纒向遺跡第167次調査をご覧ください。

発掘調査報告(240回~249回)

大福(だいふく)遺跡 第29次調査 〔NO.4〕

大福遺跡は弥生時代後期の集落遺跡です。前年度に行なわれた第28次調査では弥生時代中期中葉と後期後半の2つの時期の遺構が見つかり、全国的にも珍しい木甲(もっこう:木製のよろい)が出土しています。
第29次調査はこの第28次調査地の南東の2ケ所で行われ、弥生時代後期の溝を2条確認できました。その内の一つは第28次調査南端付近の溝の続きである可能性があり、もう一方は堆積の状況などから河川の可能性が考えられます。

弥生時代の溝の写真

弥生時代の溝(南から)

河西(かわにし)遺跡 第6次調査 〔NO.8〕

河西遺跡は鳥見山(とみやま)の西麓に位置し、古くから遺跡の存在が知られています。これまでの調査で古墳時代の竪穴住居や溝、4世紀代や7世紀代の自然流路が確認されています。
今回、第6次調査で検出した遺構は落ち込みだけですが、この落ち込みから土師器のほかに縄文土器が出土しました。この縄文土器は文様などの施文方法から縄文時代後期のものと考えられます。
また、昭和初期に採集された遺物にも縄文土器があることから、この周辺には縄文時代の遺構が眠っている可能性があります。

落ち込みの写真

落ち込み(西から)

三輪松之本東(みわまつのもとひがし)遺跡 第3次調査 〔NO.9〕

三輪松之本東遺跡はこれまでの調査で縄文時代後期と晩期の土器を含んだ河川の跡や、瓦をつくるための粘土を採取したと考えられる土坑などが見つかっています。
今回の調査では設定した4ヶ所のトレンチのうち、最も西側のトレンチで中世後期に埋没した流路跡が見つかり、桶もしくは樽の底板が出土しています。
また他のトレンチからは布目痕の付いた瓦などが出土し、以前に見つかった粘土採掘坑と同様の形状をした土坑も確認されています。ここ松之本周辺では瓦をつくるための粘土の採掘が行われ、瓦職人が瓦を焼いていたのでしょうか。

底板の出土状況の写真

底板の出土状況

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
電話:0744-42-6005
FAX:0744-42-1366