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平成23年度速報展

『平成22年度発掘調査速報展17』

平成23年4月27日~10月2日 桜井市立埋蔵文化財センター

-夏季企画展 『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋- 2011月6月

平成22年度発掘調査一覧

  1. 上之宮遺跡第19次 (調査期間):平成22年4月13日~4月30日 (調査面積):100平方メートル
  2. 纒向遺跡第168次 (調査期間):平成22年7月1日~10月18日 (調査面積):465平方メートル
  3. 大藤原京関連遺跡第53次 (調査期間):平成22年8月3日~8月10日 (調査面積):30平方メートル
  4. 大藤原京関連遺跡第54次 (調査期間):平成22年10月18日~11月2日 (調査面積):109平方メートル
  5. 安倍寺遺跡第17次 (調査期間):平成22年11月4日~11月15日 (調査面積):40.5平方メートル
  6. 茅原大墳古墳第4次 (調査期間):平成22年11月16日~ 3月24日 (調査面積):238平方メートル
  7. 纒向遺跡第169次 (調査期間):平成22年11月24日~12月9日 (調査面積):58.6平方メートル
  8. 粟殿遺物散布地(14B-5) (調査期間):平成23年1月26日~2月3日 (調査面積):60平方メートル
  9. 横内遺跡第7次 (調査期間):平成23年1月31日~2月3日 (調査面積):51平方メートル
  10. 纒向遺跡第170次 (調査期間):平成23年2月28日~3月29日 (調査面積):75平方メートル
  11. 大藤原京関連遺跡第55次 (調査期間):平成23年3月10日~3月23日 (調査面積):92平方メートル

広報「わかざくら」~発掘調査現場から~ を参照

平成22年度発掘調査地点の地図画像

平成22年度発掘調査地点

平成22年度の発掘調査

纒向(まきむく)遺跡 第168、169、170次調査 〔NO.2、7、10〕

纒向遺跡辻地区ではこれまでの調査で軸線と方位をそろえた4棟の建物と柵とみられる柱列が見つかり、国内でも最古の事例として注目されています。第168次調査は、これらの建物群より南側の遺構の様子を解明するために行われました。この調査では第162次調査で確認された建物群の南を画する東西方向の柱列の延長線上で柱穴群が見つかり、さらに東へ延びることがわかりました。
また、調査区の中央より東側で南北4.3メートル、東西2.2メートルを測る長楕円形の大型土坑が見つかりました。この土坑からは線刻を施した短頸直口壷をはじめとする多くの土器類のほか、木製容器、木製横槌などの多種多様な木製品、ガラス粟玉、魚類・鳥類・哺乳類やイネ・アワ・モモなどの栽培植物の種実や花粉といった動植物遺存体が出土しています。
特に桃核は2,765点と大量に出土しており、このような出土遺物は何らかの祭祀行為に伴うものと考えられます。特徴的なのは横槌とヘラ状木製品、底部穿孔を施した小型の直口壷を除くすべての遺物が壊されており、一部分のみが出土することで、土坑の近隣で何らかの祭祀を行った後に道具類を破壊し、土坑まで運ばれて投棄されたか、あるいは意図的に一部分のみを投棄したものと考えられます。
遺物の年代観からこの土坑は庄内3式期(3世紀中頃)に掘られたものとみられ、土坑の北端が柱列のラインと重なる事などから土坑が建物群の廃絶後に掘削され、祭祀が行われたものと考えられます。

第168次調査区内建物の南端の写真

第168次調査区内建物Dの南端(黄色)と柵(白色)

第168次調査の大型土坑から出土した遺物の写真

第168次調査の大型土坑から出土した遺物

大量に出土した桃核の写真

大量に出土した桃核は、なんと2,765点!

纒向遺跡第168次調査現地説明会資料(PDF:1.1MB)

これらの調査区の東側で行われた第170次調査では、これまでに確認されている建物群や大型土坑より新しい布留0式期(3世紀後半)以降に建てられたと考えられる建物の一部が見つかりました。しかしながら、これ以上東側の状況を確認できないため建物の規模や詳細な時期は不明です。将来的には全容が明らかになる日が来るかも知れません。
また、建物群の西側の一段低い場所で第169次調査が行われました。この調査では庄内3式期~布留0式期(3世紀中頃~後半)の土坑が見つかりましたが、出土遺物に祭祀を想像させるものがなく、井戸の可能性が考えられます。私たちがひとくちに土坑と呼んでいても、様々な性格を持つものがあったのではないでしょうか。

第169次調査で見つかった土坑の写真

第169次調査で見つかった土坑

第170次調査で見つかった柱列の写真

第170次調査で見つかった柱列

 

茅原大墓(ちはらおおはか)古墳 〔NO.6〕

桜井市北部の盆地東縁部に位置する茅原大墓古墳は、帆立貝式古墳の典型的な事例として古くから知られ、昭和57年に国史跡に指定されています。桜井市では現在、この古墳の整備を計画しており、これに先立って平成20年度より古墳形態の確認調査を実施してきました(第2次・第3次調査)。
これらの調査では葺石や埴輪列が確認され、築造時期は古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)であることがわかっています。
平成22年度の第4次調査は、墳丘の平面形態や段築構造の解明を目的として、主に墳丘東側から北側にトレンチを設定して実施しました。その結果後円部東側や墳丘東側のくびれ部、および前方部前面において茸石を伴う墳丘端が確認されました。これにより後円部径は約72メートル、墳丘全長は約86メートルに推定復元することができます。また前方部東側では2段目の葺石が確認され、前方部が2段築成であることが明らかとなりました。このほか前方部上面では埴輪棺が1基検出されています。

墳丘東側のくびれ部の写真

墳丘東側のくびれ部

前方部前面の葺石と墳丘の写真

前方部前面の葺石と墳丘

前方部上面の埴輪棺の写真

前方部上面の埴輪棺

後円部東側の葺石の写真

後円部東側の葺石

古墳に伴う遺物としては、過去の調査で円筒埴輪・壷形埴輪や蓋形埴輪の存在が確認されています。今回はこれに加え、鳥形の埴輪や盾持人埴輪などの形象埴輪の存在が明らかとなりました。このうち盾持人埴輪は、頭部から盾面の上半部にかけての高さ67センチメートル分が残存していました。出土状況からくびれ部の墳丘裾に樹立された可能性が高いと判断され、外側の邪悪なものから古墳を守る「辟邪(へきじゃ)」の意味を持つものと考えられます。盾持人埴輪として最古の事例であり、人物を造形した埴輪としても最も古く位置付けられ、埴輪祭祀の変遷を考える上できわめて重要な資料であるということができます。
奈良盆地東南部に位置する茅原大墓古墳は、古墳時代初頭からつづくこの地域の大型古墳系譜の最後に位置付けられる首長墳であり、当時の政権内における勢力変動を考える上でも注目される古墳です。しだいに明らかになっていく茅原大墓古墳の全容は、今後の古墳時代研究に影響を与えることとなりそうです。

茅原大墓古墳墳丘推定復元図の画像

茅原大墓古墳墳丘推定復元図

盾持人埴輪の写真

盾持人埴輪(頭部から盾面の上半部(高さ67センチメートル分が残存)

詳しくは発掘調査報告(250回~256回)ページの発掘調査現場から(251回)茅原大墓古墳の盾持人埴輪をご覧ください。

発掘調査報告(250回~259回)

茅原大墓古墳 現地説明会(平成23年2月26日(土曜日))

盆地東南部に造られた首長墳を見ようと2000人近くの茅原大墓ファンが現地を訪ねました。
今回のお目当ては、やはり・・・愛らしい?“盾持人埴輪”でしょうか-このおひろめの日を待ちに待った盾持人と調査担当者の想いを知ったのか、澄み渡った青空の下で説明会は行われました。

茅原大墓古墳現地説明会の写真

小立(こだち)古墳と纒向遺跡出土の家形埴輪の復元

小立古墳は、墳丘の全長34.7メートル、盾形の周濠を持つ古墳時代中期の帆立貝式前方後円墳で、平成11・12年度に行れた大字山田~池之内の圃場整備に伴う磐余遺跡群第1・2次調査で、その存在が初めて確認されました。
この古墳は立地が特徴的で、通常は尾根の上や平地に位置することが多い墳丘が谷間に築かれていました。そのため築造後の早い段階で土砂により全体が埋没し始めたと考えられ、埋葬施設があったであろう後円部3段目は消失していたものの、周囲に葺石が残る後円部2段・前方部1段分の墳丘が築造当時の姿に近い状態で残っていました。
遺物についても、後円部に立ったまま残る円筒埴輪をはじめ、周濠からは盾形・靫形・大刀形・石見型などの木製品や家形・馬形・甲冑形などの形象埴輪も出土しました。
これら小立古墳出土の形象埴輪のうち家形埴輪2個体と、纒向遺跡の第5次調査(1971年)で出土した家形埴輪1個体をこの度緊急雇用創出事業を活用し復元することができました。ぜひ展示室にてご覧下さい。

埴輪が並ぶ小立古墳の墳丘の写真

埴輪が並ぶ小立古墳の墳丘

安倍寺(あべでら)遺跡第17次調査 〔NO.5〕

市街地南部の磐余地域は、古墳時代の歴代天皇が宮を造られたとされる伝承が残る歴史の古い地域です。古事記・日本書紀には磐余池に関する記事が記され、万葉歌人はこの地の歌を数多く詠んでいました。
安倍寺跡は、昭和40年から発掘調査が実施され、7世紀後半に創建された古代豪族阿倍氏の氏寺として昭和45年に国指定を受け史跡公園となりました。
安倍寺遺跡は安倍寺跡を含む東西400メートル、南北600メートルの範囲に広がる遺跡で、これまでの調査では古墳時代に玉作りや鉄器生産を行ったと考えられる物や住居跡が見つかっています。
今回の調査では、5・6世紀の大量の土器や鍛冶関連の遺物を含む土と、柱が沈まないように植物を敷いて固定したような柱穴などが見つかりました。
現在、調査地一帯は市内随一の木材加工場である安倍木材団地として知られていますが、1400年前頃に活躍した古代豪族阿倍氏の活躍に想いをはせて散策するのも楽しそうです。

安倍寺遺跡調査地の様子の写真

安倍寺遺跡調査地の様子

詳しくは発掘調査報告(250回~256回)ページの発掘調査現場から(250回)安倍寺遺跡第17次調査をご覧ください。

発掘調査報告(250回~259回)

上之宮(うえのみや)遺跡第19次調査 〔NO.1〕

上之宮遺跡は聖徳太子が幼少・青年期を過ごした「上宮(かみつみや)」の候補地のひとつとされ、これまでの調査によって6世紀末~7世紀初頭の大型建物や園池遺構などが見つかっています。
今回の調査は寺川に隣接する遺跡の東端域で実施され、2棟の建物跡を検出しました。その内のひとつは、一辺1~1.2メートルの方形プランをもつ大型柱穴で構成されるもので、南北3間以上の建物となります。
上之宮遺跡は5時期にわたって遺跡が展開し、それぞれの時期によって建物の方位が異なることがわかっています。とくに今回の大型柱穴をもつ建物は、柱穴からの出土遺物は乏しいですが、方位が8度西に傾くことから、おおよそ6世紀中頃の上之宮1期に所属する可能性が高いと考えられます。
また、調査地内やその周辺では粘土ブロックや小礫を含む整地土が確認されていることからも、上之宮遺跡は当初の段階から計画的につくられていたことがうかがえます。

上之宮遺跡6世紀の2つの建物の写真

上之宮遺跡6世紀の2つの建物

詳しくは発掘調査報告(240回~249回)ページの発掘調査現場から(249回)上之宮遺跡第19次調査をご覧ください。

発掘調査報告(240回~249回)

上之宮(うえのみや)遺跡第19次調査 〔NO.1〕

大藤原京関連遺跡の調査地の写真

  • 大藤原京関連遺跡55次

東西に方位を揃える3基の柱穴が確認されました。いずれも一辺約50センチメートルの隅丸方形で、その内の一つには径12センチメートルの柱材が残っていました。
遺物が出土していないため時期ははっきりしませんが、柱穴の形状や中世の素掘溝によって壊されていることなどから、藤原京期の柵か建物となる可能性があります。これらが藤原京に関連するものであれば、現在、桜井市で見つかっている最も北端の構造物となります。

  • 大藤原京関連遺跡53次

藤原京期の道路や道路側溝跡は確認されませんでしたが、当時の道路が調査地西隣の現在のアスファルト道路の下か、東側に残っている可能性が考えられます。

  • 横内遺跡7次

一条大路北側溝と東九坊大路西側溝が確認されました。また平安時代の道路跡となる2条の溝が見つかりました。
これらは藤原京が都としての機能を失った後も、一条大路が東西の交通路として利用されていたことを物語っています。

  • 大藤原京関連遺跡54次

藤原京期の遺構は確認されませんでしたが、中世の柱列や美しく磨かれた瓦器が多数見つかりました。「大和国条里復元図」によるとこの地は小字「裏門」と呼ばれており、確認された柱列はこの小字名に関係するものかもしれません。

粟殿(おおどの)遺物散布地(14B-5) 〔NO.8〕

遺物散布地(14B-15)は初瀬川と寺川にはさまれた沖積地上にあります。これまで、発掘調査は行われていませんが、土師器や須恵器、磨製石剣が採集されていることから遺物散布地として奈良県遺跡地図に記載されています。
今回の調査では、古い河川跡が2つと古墳時代前期のピットが見つかりました。河川跡では杭や弥生土器片が出土していることから、上流にあたる調査地点より東にこの時代の集落があったのかもしれません。

粟殿遺物散布地2つの河川跡とピットの写真

粟殿遺物散布地2つの河川跡とピット

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