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平成25年度速報展

『平成24年度発掘調査速報展19』

平成25年4月24日~9月29日 桜井市立埋蔵文化財センター
- 『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋-

~発掘調査報告会のお知らせ~
日時:平成25年7月20日(土曜日)13時30分~15時30分
場所:桜井市立埋蔵文化財センター 2階 多目的室
内容:

  • 「大福遺跡 第30次発掘調査」
  • 「纒向遺跡 第176次発掘調査」
  • 「茅原大墓古墳 第6次発掘調査」

(聴講には入館料が必要です。)

はじめに
 桜井市には纒向遺跡をはじめ、各時代の様々な遺跡が数多く存在しています。当センターでは、市民の皆様に、市内に残された文化財をより身近に感じていただくため、文化財の普及・啓発の一環として調査速報展を開催しております。
 今回の展示では、平成24年度に実施された市内の発掘調査成果を紹介します。昨年度の調査では大福遺跡で弥生時代の環濠が確認されたこと、纒向遺跡で4世紀代の溝が見つかったことなど、遺跡の評価に深く関わる成果が得られました。
 この展示を通して、50センチメートル下に広がるもう一つの桜井市の側面を目にすることで、より歴史への理解を深め、文化財や先人達に対する親しみを感じていただく機会を提供したいと考えます。

平成24年度発掘調査一覧

  1. 戒重遺跡 第1次 (調査期間):2012年4月4日~2012年4月17日(調査面積): 39平方メートル
  2. 横内遺跡 第8次 (調査期間):2012年4月4日(調査面積): 15平方メートル
  3. 纒向遺跡 第174次 (調査期間):2012年4月17日~2012年5月11日(調査面積): 60平方メートル
  4. 城島遺跡 第45次 (調査期間):2012年5月17日~2012年5月23日(調査面積): 25平方メートル
  5. 吉備遺跡 第16次 (調査期間):2012年5月18日~2012年5月23日(調査面積): 21平方メートル
  6. 談山神社・妙楽寺跡 第2次 (調査期間):2012年7月2日~2012年8月3日(調査面積): 48平方メートル
  7. 大福遺跡 第30次 (調査期間):2012年8月6日~2012年11月30日(調査面積): 390平方メートル
  8. 脇本遺跡 第19次 (調査期間):2012年8月27日~2012年10月15日(調査面積): 61.9平方メートル
  9. 纒向遺跡 第175次 (調査期間):2012年9月7日~2012年9月24日(調査面積): 25平方メートル
  10. 纒向遺跡 第176次 (調査期間):2012年11月14日~2013年3月6日(調査面積): 472.5平方メートル
  11. 茅原大墓古墳 第6次 (調査期間):2012年12月7日~2013年2月23日(調査面積): 98平方メートル
  12. 城島遺跡 第46次 (調査期間):2013年1月7日(調査面積): 8.6平方メートル
  13. 吉備池遺跡 第16次 (調査期間):2013年1月31日~2013年3月19日(調査面積): 417平方メートル

 

平成24年度の発掘調査

大福遺跡(だいふくいせき) 第30次発掘調査 〔NO.7〕

 桜井市の西部に広がる大福遺跡は弥生時代中期~後期の遺跡として知られています。今回は1~3トレンチの3か所の調査を行ったところ、弥生時代中期~後期、古墳時代前期、古代の遺構が見つかりました。

 古代の遺構は、奈良時代の井戸と藤原京の条坊道路の側溝が見つかりました。井戸は長さ約2.6メートル、幅約65センチメートル、厚さ6センチメートルの一枚板を4枚組み合わせて井戸枠にしたもので、中から土器や木製品の他に「神功開寶(じんぐうかいほう)」と鋳出(いだ)されたお金が出土しました。
 このお金は『皇朝(こうちょう)十二銭』と呼ばれる12種類のお金の一種で、初めて鋳造された年が天平神護元(765)年であることから、この井戸は奈良時代後半に埋まったと考えられます。
 藤原京の道路側溝は南北道路である東五坊大路と、東西道路である北三条大路のものが見つかりました。特に東五坊大路は、東西両方の側溝が見つかり、中心間の距離が約8.5メートルとこれまで見つかっている道路規模と一致するものでした。

 古墳時代前期の遺構は主に1トレンチで溝が数条見つかりました。幅が約1メートルのこの溝は、L字状に曲がることから「方形周溝(ほうけいしゅうこう)」と考えられます。弥生時代から始まる方形周溝墓という墓制がありますが、今回見つかったものには埋葬した痕跡が見られなかったため、方形周溝という呼び名にしています。これらは古墳時代前期前半頃に掘られたことが出土した土器からわかりました。

 この古墳時代前期の遺構が掘られた層位からは、筒状の青銅製品が見つかりました。これは「筒状銅器(つつじょうどうき)」と呼ばれるもので、大きさは直径2.2センチメートル、長さ9.1センチメートルの円筒形で、最も厚い部分で4ミリメートルあります。これまで愛知県や岐阜県、神奈川県などで見つかっていて、今回のもので11例目になります。
 どのように使われたものなのかははっきりとわかっていませんが、槍の石突(いしづき)に使われたものではないかとの考えもあります。また、古墳時代前期中頃から中期の古墳の副葬品には「筒形銅器(つつがたどうき)」という青銅製品があり、「筒状銅器」が「筒形銅器」の祖形ではないかという説があります。

 弥生時代の遺構は中期のものが多く、それらを壊すように後期の遺構が見つかっています。弥生時代中期の遺構の中でも特に注目すべきなのは、1トレンチで見つかったSX-03と2トレンチで見つかったSD-18の二つです。これらはそれぞれに遺構番号が付けられていますが、本来は一つの大きな溝であったようです。幅が約4.5メートル、深さが約1.5メートルの規模で、二つを合わせた長さは見つかった部分だけで約10メートルになります。

 こういった大きな溝は弥生時代の集落の周囲を取り囲んだ「環濠(かんごう)」で、西隣の橿原市でも見つかっています。橿原市のものは集落の北西側、今回のものは集落の南東側の環濠であることから、範囲は直径約400メートル、面積にして約1.2ヘクタールの集落であったことがわかりました。今回見つかった環濠は一つだけでしたが、橿原市での状況から複数の環濠が巡っていたと考えられ、調査地の北側や西側でも見つかる可能性があります。

奈良時代の井戸(南より)

奈良時代の井戸(南より)

古墳時代前期の方形周溝(南より)

古墳時代前期の方形周溝(南より)

弥生時代の環濠SD-18(南西より)

弥生時代の環濠SD-18(南西より)

大福遺跡で見つかった筒状銅器

大福遺跡で見つかった筒状銅器

纒向遺跡(まきむくいせき)第174次発掘調査・第176次発掘調査 〔NO.3,10〕

 纒向遺跡は、奈良盆地の南東部、桜井市の北部にある遺跡です。遺跡は東西2キロメートル、南北1.5キロメートルと広く、3世紀から4世紀にかけて栄えた集落ですが、他の遺跡と違って、大和以外の地域から運ばれた土器が多いことや、纒向石塚古墳や、ホケノ山古墳、箸墓古墳といった、最も古い時期の古墳が存在することから注目を集めてきた遺跡です。
 
《第174次調査》
 第174次調査は、勝山古墳から東に約250メートルの地点で実施された調査です。主な遺構として古墳時代初頭の土坑(穴)と河道、古墳時代中期末~後期の溝が挙げられます。

 トレンチの北半で見つかった土坑は、5メートル×3.5メートルほどの規模で、深さが約50センチメートルです。この遺構を覆っていた包含層や遺構の最上層~上層から断面形が蒲鉾(かまぼこ)形の鞴(ふいご)羽口、多数の鉄滓(てっさい)や鉄片などの鍛冶関連遺物が発見されました。この土坑は、鍛冶とは直接関連する遺構ではありませんでしたが、付近で鉄器生産が行われていた可能性は十分に考えられます。共伴した土器から鉄器生産が行われたのは3世紀後半頃と思われます。

 トレンチの南半で検出された溝は、その埋土の状態から滞水していた状態が窺えます。溝の埋土から馬形埴輪(うまがたはにわ)や須恵器(すえき)の破片などが見つかりました。この周辺では、石塚東古墳や勝山東古墳など5~6世紀の古墳が多く見つかっているため、この溝も古墳時代中期末から後期にかけての古墳の周濠(しゅうごう)の一部である可能性があります。
 
 

調査地全景(北より)

調査地全景(北より)

纒向遺跡第174次発掘調査の風景

纒向遺跡第174次発掘調査の風景

《第176次調査》
 桜井市では、2008年から纒向遺跡の辻地区で範囲確認調査を行ってきました。
 一連の調査では、推定19.4メートル×12.4メートルの大規模な建物を含む、3世紀前半に遡るとみられる3棟の建物などを確認した他、3世紀中頃の桃の種を2000個以上も納めた土坑などが見つかっています。

 このような成果を受けて、建物群の周辺がどのようになっているのかを探るために、第176次調査では建物群の西側・南西側を調査しました。今回の調査は広い範囲を効率的に調査するため、5か所に調査区を設け、それぞれ1~5区と名付けています。

 その結果、建物群の西側の1区では3世紀後半に埋没したとみられる井戸や、多数の柱穴を検出しました。多数の柱穴は何らかの建物を構成すると考えられますが、現時点では復元ができていません。

 井戸は新旧二度にわたって掘削されたとみられ、古い方の井戸は最下部に編籠(あみかご)を設置していました。新しい方の井戸は、古い方の井戸の埋没後に重複して掘削し、井戸枠をもつ構造だったようです。最終的に新しい井戸は板材が引きぬかれて埋められました。新しい井戸が埋められた時期は3世紀後半に下るとみられます。

 建物群の南西側を調査した2~5区では、建物群に伴う時期の遺構は認められず、3世紀後半の土坑群と4世紀中頃の大規模な東西方向の溝が見つかりました。このうち4世紀中頃の東西方向の溝は、これまでの範囲確認調査で検出していた同時期の南北方向の溝と組み合って、微高地の東側、南側、西側の一部を囲う大規模な区画溝となることが判明しました。
 この区画溝がどのような用途に用いられていたのか現時点では不明ですが、北側にも同様の溝があるならば、首長(豪族)の居館を巡る溝などの可能性が考えられます。もしそうであるならば、3世紀の前半~中頃の建物群が廃絶した後も、当地が居館として用いられていた時期があったことを示すものです。

 3区の土坑SK-1006上層からは、巴状石製品(ともえじょうせきせいひん)が出土しました。この石製品は一辺4.5センチメートル、厚さ0.7センチメートル、重さ27.3グラムで、四隅に突起がついています。表面には四隅部分に凹んだ線があります。SK-1006から出土した土器は3世紀後半のものとみられるので、巴状石製品もその時期のものとみられます。石製品の出現は古墳時代前期前半と考えられていることから、この石製品は最古級のものと考えられます。
 この石製品がどのような用途を持つものであったのかは不明です。また、凹線(おうせん)に途中で途切れる部分があったり、一隅は凹線が全く認められないことから、未製品の可能性も考えられます。完成品としては研磨の痕跡がよく残っていることも傍証として挙げられます。石材は石川県小松市滝ケ原産の石英安山岩質凝灰岩(せきえいあんざんがんしつぎょうかいがん)と考えられます。
(石材の種別については奥田尚氏《橿原考古学研究所共同研究員》のご教示によります。)

1区井戸(北より)

1区井戸(北より)

3・4区 区画溝(西より)

3・4区 区画溝(西より)

巴状石製品

巴状石製品

発掘調査の風景

発掘調査の風景

戒重遺跡(かいじゅういせき) 第1次発掘調査 〔NO.1〕

 『戒重』という地名は南北朝期から見られ、このほかに「開住」・「海住」・「階重」・「開地井」・「開治井」などとも書かれます。当時、この辺りは戒重氏という豪族の本拠地で、この一族の僧であった西阿(せいあ)によって戒重城が築かれ、南朝方に属したことが知られています。戒重遺跡はこの城跡よりもさらに南側、寺川と銭川にはさまれたところにあります。これまで本格的な発掘調査は行われていませんが、縄文時代から弥生時代の遺跡として知られています。

 今回の記念すべき第1回目の調査は、戒重遺跡の南西隅、横大路(よこおおじ)と呼ばれる古代の街道沿いで行われました。横大路に関係するものは見つかりませんでしたが、近世の瓦を大量に廃棄した土坑や古代の流路跡が見つかりました。特に古代の流路跡では流路の流れを塞(せ)き止めるための「柵(しがらみ)」が設置されている状況がわかりました。
 この柵は流路の肩口に直径10センチメートルほどの木杭を打ち込み、その間を直径2センチメートルほどの木の枝を交差して編み込むように組んでいます。国語辞典などを見ると柵とは「水流を塞き止めるために杭を打ちならべて、これに竹や木を渡したもの。」とあります。もしかすると、横大路に川の水が流れ込まないようにするために設置されたものかもしれません。

柵 検出状況(北より)

柵 検出状況(北より)

茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)第6次発掘調査 〔NO.11〕

 桜井市北部に位置する茅原大墓古墳は、後円部の大きさに対して前方部が著しく小さい「帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)」の典型的な事例として古くから知られ、昭和57年に国史跡に指定されています。
 桜井市ではこの古墳の整備を計画しており、平成20年度から継続して発掘調査を実施しています。これまでの調査では葺石(ふきいし)や埴輪列が確認されたほか、最古の事例となる盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)が出土するなど、大きな成果が得られています。墳丘全長は約86メートル、築造時期は古墳時代中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭頃)であることがわかってきました。

 茅原大墓古墳の最大の特徴である「帆立貝式古墳」という墳丘形態(ふんきゅうけいたい)は、4世紀末頃に登場し、前方後円墳の築造が規制された結果創り出されたという考えがあります。
 奈良盆地東南部では3世紀後半~4世紀後半に200メートルを超える巨大な前方後円墳が次々と築造(ちくぞう)されますが、その後茅原大墓古墳を最後として、大きな古墳は築造されなくなります。
 茅原大墓古墳は当時のこの地域の首長の墓と考えられますが、墳丘の規模や形態はそれ以前の巨大古墳と比べると見劣りするものであり、この地域の勢力の衰退を象徴していると言うことができます。

 平成24年度の第6次調査は、さらなる墳丘形態の解明を目的として、墳丘の北西側において実施されました。その結果、前方部の北西隅付近から北側へと続く幅8メートル程度の渡土堤(わたりどてい)状の高まりが見つかりました。
 渡土堤は墳丘と濠の外側をつなぐように築かれた堤(つつみ)のことで、墳丘への通路としての役割のほか、濠の水位を調整する機能を持っていたと考えられています。茅原大墓古墳では前方部北東側で確認されていますので、今回見つかった渡土堤状の高まりは、墳丘主軸を挟んでこれと対称となる位置に存在することになります。

 もう一つ新しい知見としては、前方部北西隅付近で葺石が確認されなかったことが挙げられます。今回の調査地は、人目につきやすい平地に面する側ということもあり、山側である墳丘の東側よりも重厚な葺石が存在すると当初想定していました。
 しかし結果としては、崩落した石材なども確認されず、ここに葺石が存在した痕跡は一切認められませんでした。後世に抜き取られた可能性とともに、築造当初より前方部北西隅周辺に葺石が施されていなかった可能性も検討する必要があります。
 このように今回の調査では、当初想定されなかったような成果が得られました。今後はこれらの成果を踏まえて、茅原大墓古墳の整備を行うこととなります。

茅原大墓古墳第6次発掘調査の風景

茅原大墓古墳第6次発掘調査の風景

茅原大墓古墳 復元推定図

茅原大墓古墳 復元推定図

墳丘と第6次調査地(北西より)

墳丘と第6次調査地(北西より)

談山神社(たんざんじんじゃ)・妙楽寺跡(みょうらくじあと)第2次発掘調査 〔NO.6〕

 談山神社は桜井市の南にある御破裂山(ごはれつやま)の山腹に鎮座(ちんざ)する、藤原鎌足を祀る神社です。『多武峯縁起(とうのみねえんぎ)』によれば、乙巳(いっし)の変(645年)で中大兄皇子と藤原鎌足が談合した山とされ、「談山(かたらいやま)」の名の由来となっています。
 神社として有名な談山神社ですが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)以前は、多くの寺社が建ち並び、護国院妙楽寺、多武峯寺、談山権現などと呼ばれ、天台宗派の寺院として盛行しました。

 今回の調査は、多武峰観光ホテル東側の駐車場の防火水槽設置工事に伴う事前調査として行われました。調査地は享保7(1722)年の『多武峯絵図』に建物が描かれており、幕末の多武峯子院配置図には常住院という建物があったことがわかっており、その門が今も残されています。その後、多武峰小学校の運動場や多武峰ユースホステルとして利用され、現在は談山神社参拝者用の駐車場となっています。

 調査地全面に多武峰ユースホステルの基礎が入っており、その破壊を免れた部分のみの調査となりましたが、南北方向の石積み2列が検出されました。
 調査地のすぐ北は東門に通じる参道が通っています。調査地周辺は東に向かって下る傾斜地で、トレンチ北側の断面では平地を造成するための整地土が確認できます。調査地西側では上述した建物を築造する際のものと考えられる整地土が幾層も確認できますが、出土した遣物が少なく時期の特定ができませんでした。

 西側の石積み(1区)の中から13世紀後半の土師器(はじき)の皿が出土したので、この石積みはそれ以降に造られ、東側の石積み(2・3区)が造られる前に崩れてしまったと考えられます。
 西側の石積みを覆っていた土からは、12~16世紀代の土師器の皿、瓦器(がき)碗、瓦器皿、青磁(せいじ)の碗、備前焼の壷など、東側の石積みを覆っていた土からは17世紀の擂鉢(すりばち)、土師器の皿が出土しており、これらが石積みの下限と考えられます。これらの2つの石積みから、時代が経るにしたがって、東側に平坦地が拡張されていく様子を読み取ることができました。

2・3区石積み(東より)

2・3区石積み(東より)

1区石積み(北より)

1区石積み(北より)

談山神社本殿

談山神社本殿

脇本遺跡(わきもといせき) 第19次発掘調査 〔NO.8〕

 脇本遺跡は初瀬(はせ)谷の西端、初瀬川の北岸に位置する弥生時代後期から飛鳥時代を中心とした遺跡で、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の伝承地としても有力な遺跡です。今年度の調査地は、朝倉小学校のすぐ南西にあり、周辺の過去の調査では6~7世紀の建物跡や石組みの溝などが確認されています。

 今回の調査では古墳時代中期、弥生時代前期の遺構や遺物が見つかりました。古墳時代中期頃の遺構は、複数の柱穴、用途不明の巨大な遺構などが見つかりました。
 柱穴のうち2つは近接した距離にあり、形態・規模や埋まり方が類似することから同一の建物の柱跡であると想定されます。
 遺物は、土器のほかに多量の製塩土器の破片や鉄釘、サヌカイト片なども見つかっています。

調査地全景(南東より)

調査地全景(北東より)

吉備池遺跡(きびいけいせき) 第16次発掘調査 〔NO.13〕

 吉備池廃寺は大規模な伽藍(がらん)をもつことから、舒明11(639)年に建立が始まった日本最初の天皇の勅願寺(ちょくがんじ)である「百済大寺(くだらのおおでら)」に比定されています。本調査はその吉備池廃寺跡の中心伽藍の南外側で行われた調査で、昨年度の調査(第15次調査)を実施した場所のすぐ南側です。

 調査区の中程から幅1.1メートルの南北に延びる溝が見つかりました。第15次調査の成果と合わせると溝の長さは70メートル以上になることがわかりました。この溝からは、遺物がほとんど見つかりませんでしたが、昨年度の調査成果により吉備池廃寺創建時前後のものと考えられます。

 この溝は寺の中心部に向かってまっすぐ延びることから、参道のような道路の側溝の可能性などが考えられますが、残念ながらこの溝と対になるものは、調査区内から見つかりませんでした。寺域周辺の様子をより広範囲に明らかにすることが今後の課題となるでしょう。

調査地全景(南東より)

調査地全景(南東より)

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
電話:0744-42-6005
FAX:0744-42-1366