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平成26年度速報展

『平成25年度発掘調査速報展20』

平成26年6月18日~9月28日 桜井市立埋蔵文化財センター
『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋

~発掘調査報告会のお知らせ~
日時:平成26年9月27日(土曜日)13時30分~15時30分
場所:桜井市立埋蔵文化財センター 2階 多目的室
内容:

  • 「大藤原京関連遺跡の調査」
  • 「高田遺跡 第3次調査」
  • 「纒向遺跡 第180次調査」

(聴講には入館料が必要です。)

はじめに
 桜井市内には、纒向(まきむく)遺跡をはじめとして全国的にも注目されている遺跡が数多く残されています。桜井市立埋蔵文化財センターでは、市民のみなさまにこれらの文化遺産をより身近に感じていただくために、市内遺跡の発掘調査で出土した遺物の展示・公開に取り組んでいます。
 今回の速報展では、平成25年度におこなった発掘調査の成果を紹介します。昨年度は13件の調査をおこない、纒向遺跡では建物群の一部、横内(よこうち)遺跡・大藤原京(だいふじわらきょう)関連遺跡では藤原京の条坊(じょうぼう)に関係する遺構など、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。
 これらの調査成果を出土した遺物とともに、速報としてみなさまにお届けします。この展示会をきっかけに桜井市の文化遺産に親しんでいただければ幸いです。

平成25年度発掘調査一覧

  1. 高田遺跡 第3次 (調査期間):25年5月8日~6月10日(調査面積):340.5平方メートル
  2. 大藤原京関連遺跡 第60次 (調査期間):25年5月17日~5月30日(調査面積):50平方メートル
  3. 横内遺跡 第9次 (調査期間):25年5月21日~6月16日(調査面積):274平方メートル
  4. 横内遺跡 第10次 (調査期間):25年7月1日~7月12日(調査面積):133.4平方メートル
  5. 纒向遺跡 第179次 (調査期間):25年8月20日~9月10日(調査面積):120平方メートル
  6. 戒重遺跡 第2次 (調査期間):25年10月7日~10月15日(調査面積):25平方メートル
  7. 纒向遺跡 第180次 (調査期間):25年10月30日~2月24日(調査面積):205平方メートル
  8. 安倍寺跡 第21次 (調査期間):25年11月6日~12月2日(調査面積):60平方メートル
  9. 纒向遺跡 第181次 (調査期間):25年11月6日~12月24日(調査面積):403平方メートル
  10. 東新堂遺跡 第12次 (調査期間):25年11月21日~2月26日(調査面積):720平方メートル
  11. 大藤原京関連遺跡 第61次 (調査期間):25年12月4日~12月24日(調査面積):100平方メートル
  12. 茅原大墓古墳 地中探査 (調査期間):25年12月13日~12月17日(調査面積):13メートル×13メートル
  13. 城島遺跡 第47次 (調査期間):26年2月17日~3月1日(調査面積):40平方メートル

 

 

平成25年度の発掘調査

纒向(まきむく)遺跡 第180・181次調査 〔NO.7,9〕

 

【第180次調査】
 纒向遺跡は桜井市北部に所在する遺跡です。桜井市では平成20年度より範囲確認調査をおこなっています。今回の調査の目的は、これまでに検出した3世紀中頃以前の建物群(建物B・C・D)より東側の遺構の状況を確認することです。一連の範囲確認調査では初めてJR桜井線の東側を調査しました。
 出土遺物の整理作業を経ていないため、現時点で各遺構の厳密な時期決定をおこなうことは困難ですが、調査段階での所見に基づいて解説したいと思います。主な遺構として、2棟の建物と溝、柱列を検出しています。

建物F 東西2間(約3.4メートル)かそれ以上、南北3間(約6.7メートル)を数えます。一辺0.4~0.6メートル程度の隅丸方形(すみまるほうけい)の柱穴が多いようです。一部の柱穴は3世紀後半の土坑(どこう)に壊されています。建物Fの主軸は、真北に対して4~5度西に振れており、3世紀中頃以前の建物B・C・Dとほぼ平行していることや、中軸線を一致させることから、建物B・C・Dと共存していた可能性が考えられます。

建物G 南北2間(約4.2メートル)を数えますが、建物の多くは調査区外西側に展開すると考えています。3世紀末~4世紀前半に埋没した溝に壊されており、それ以前の建物と考えられます。

SD-1001・SD-1002・柱列 SD-1002は南北溝で、幅約2.5メートル、長さ約20メートル以上をはかります。出土した土器から、3世紀後半に下層が埋没し、3世紀末~4世紀前半に上層が埋まったと考えています。真北に対して2~3度東に振れています。SD-1001はSD-1002に直交する溝で、幅約0.8メートル、長さ約6.6メートル以上をはかります。SD-1002と共存していたと考えています。ただしSD-1001の方が先行して埋没したようです。柱列はSD-1002に平行し、SD-1001を超えて北側には伸びないと考えます。SD-1002と共存する可能性があります。

まとめ 建物Fの検出により、建物B・C・Dの東側にも同時期の建物が展開している可能性が指摘できます。共存するとすれば建物群のエリアがより東にひろがるものといえるでしょう。またSD-1002・SD-1001と柱列は、JR桜井線の西側で検出した建物E(第170次調査)と平行し、共存していた可能性が指摘できます。

調査区全景(上が東)

調査区全景(上が東)

SD-1002(北より)

SD-1002(北より)

 【第181次調査】
 本調査は纒向遺跡の北部にあたる大字草川地内でおこなわれました。この付近は現在、南北とも東西に流れる水路にはさまれており、古くからも河道に挟まれていた地域だと推測されています。南北2か所に調査区を設けたところ、南調査区では中世頃の東西に流れる河道跡、北調査区では溝や土坑などを発見しました。
 北調査区の土坑は古墳時代中期のもので、中からは土師器甕(はじきかめ)、高杯(たかつき)などが出土しています。湧水層まで掘削されていることから井戸の可能性があります。溝のうち南北方向にのびる2条の溝は、同規模で、一定の間隔で平行に掘削されていることから、耕作に関するものだと思われます。溝からは土師器皿や瓦器(がき)が出土しており、中世の時期のものだと思われます。
 今回の調査では古墳時代前期の遺構はなく、遺物も他の地点に比して少ないものでした。前期の集落の中心からは離れていることもあって、この地が居住地としてあまり利用されなかったと考えられます。古墳時代中期以降は遺構が散見され、中世になると耕作地として利用されるなど、徐々にこの地域の土地利用がおこなわれていった様子がわかりました。

北調査区全景(東より)

北調査区全景(東より)

土坑内の遺物出土状況

土坑内の遺物出土状況

高田(たかた)遺跡 第3次調査 〔NO.1〕

 高田遺跡は大字高田地内の中でも西よりで、大字生田(おいだ)と字境を接している付近に位置しています。過去の調査では弥生時代や6~7世紀の遺物が出土しており、また、すぐ南側には古代寺院である高田廃寺の推定地が存在することから、それらに関連する遺構の存在が期待されている場所です。
 今回の調査は、その中でも南側の竜門山地から北に延びる尾根上でおこなわれ、墓壙(ぼこう)及び古墳状隆起(こふんじょうりゅうき)とそれを区画する掘割(ほりわり)をみつけることができました。
 墓墳は幅1.8メートル、長さ3.3メートルで、底面には棺床(かんしょう)と思われる敷石(しきいし)がありました。副葬品(ふくそうひん)がなかったため埋葬時期は特定できませんでしたが、周辺の状況から古代の墓と考えられます。古墳状隆起には埋葬施設が残存していませんでしたが、掘割の形状から一辺8メートル前後の方墳(ほうふん)の可能性があります。掘割から出土した土器から古墳時代後期に築造された可能性が高いと思われます。
 調査地周辺は、古代寺院や古墳時代後期の古墳が多く存在しています。今回みつかった墓壙や古墳に葬られた人とどのような関係があったのでしょうか?今後の調査で明らかにしていく必要があります。

墓填(南より)

墓壙(南より)

調査地全景(上が北)

調査地全景(上が北)

安倍寺(あべでら)跡 第21次調査 〔NO.8〕

  桜井市の南部、安倍文殊院(あべもんじゅいん)すぐ南西に位置する安倍寺跡は、古代氏族の阿倍氏の氏寺であったといわれています。平安時代末頃の『東大寺要録(とうだいじようろく)』という書物によれば、安倍寺は「安倍倉橋大臣(阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)」の建立であるとあります。近年の瓦研究を通じて、安倍寺の造営開始年代が7世紀半ばにあたると考えられるようになりました。この時代は阿倍倉梯麻呂が活躍した時期であるため、安倍寺建立に関わっていた可能性があります。
 安倍寺は、法隆寺式伽藍配置をとると考えられ、寺の西側に石を積んで造った大垣(西面大垣(さいめんおおがき))を伴っていたことが過去の調査から明らかになっています。

 第21次調査は、安倍寺史跡公園(安倍寺跡)の北西、七ツ井児童公園の南に位置しており、安倍寺の西端及び北端に近いことが予想され、西面大垣の続きを探ることと、寺域を明らかにする成果が期待されました。
 調査区の西端では、幅2メートルに対し探さ0.2~0.3メートル程の南北方向にのびる溝が見つかりました。溝は、北側が南側よりやや深く、底付近のみが残存している状態であると考えられます。この溝からは、7世紀後半頃のものと考えられる土器片のほか、多数の瓦片が出土しました。溝の最下層には細かな礫(れき)や砂が交互に堆積しており、流水の痕跡が認められます。この溝の性格については、西面大垣に伴う溝の延長部分にあたる可能性があります。溝は調査区外に続いており、安倍寺の寺域北限も更に北に位置することが想定されます。
 調査区の東半分では、平面規模が最大で1メートル程の柱穴が東西一列に並んで4基以上見つかりました。各柱穴の規模や埋土の状態が類似しており、1つの構築物を形成していたと考えられます。柱穴のうち1基からは、柱痕跡の下に20センチメートル程の礫が配置されているのが見つかりました。
 柱穴群からは遺物があまり出土せず、詳細な時期を決定するのは困難です。柱の中心と中心の間隔は平均して1.8メートル程で、ちょうど六尺に相当することや、柱穴の掘形が方形であることから、古代の建物あるいは柵列であった可能性があります。詳しい性格については、柱列一列だけでは判断することはできませんが、想定される年代から安倍寺に関連する施設の一部なのではないでしょうか。

溝の最下層部分(西より)

溝の最下層部分(西より)

溝の上面から出土した瓦(北より)

溝の上面から出土した瓦(北より)

調査区東半の柱列(東より)

調査区東半の柱列(東より)

横内(よこうち)遺跡 第9・10次調査 〔NO.3,4〕

 横内遺跡は桜井市の西部、国道165号線の北側の大字吉備(きび)・大福(だいふく)地内にかけて広がる遺跡で、これまでの調査で弥生時代の竪穴式住居や藤原京の条坊道路などが見つかっています。平成25年度は第9・10次調査をおこないました。

【第9次調査】
 第9次調査は、一条大路の北側溝と東九坊大路(ひがしきゅうぼうおおじ)の東側溝が見つかった第7次調査地のすぐそばでおこないました。
 調査は南北に長い第1調査区と東西に長い第2調査区の2か所でおこなったところ、溝が7条見つかったほか、井戸が見つかりました。このうち第2調査区で見つかった南北方向の2条の溝は、7世紀末頃の藤原京期の土器が出土し、溝の間の距離が約9メートルであること、西側の溝が第7次調査で見つかった東九坊大路西側溝の延長上にあたることから、この2条の溝は東九坊大路の東西側溝であることがわかりました。
 また、第1調査区では東西方向の溝が3条見つかっています。このうち北側で見つかった溝は、第7次調査で見つかった一条大路北側溝の延長上にあたります。さらには南側にこの溝から約9メートルの場所にも溝があり、道路側溝の可能性が考えられます。

第2調査区全景(上が北)

第2調査区全景(上が北)

【第10次調査】
 第10次調査は、遺跡のほぼ中心付近にある小高い丘陵上でおこなわれました。南北2か所に調査区を設け、そのうち南側の調査区から掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)を発見しました。この建物の柱穴は一辺1~1.5メートルの方形で、9基確認することができました。
 この建物の規模は、推測の部分を含めると、東西2間、南北5間で床面積は約70平方メートルを超えます。柱穴からは藤原京期もしくは奈良時代の須恵器(すえき)や鉄滓(てっさい)が出土しており、建物の時期もその前後のものとなるでしょう。柱穴の規模を含めて考えると当時としては大型の部類に属する建物になります。
 また、鉄滓が出土したことは、鉄製品の生産が近くでおこなわれていたことを示しています。このような状況や建物の規模などから、今回の建物が単独で存在しているとは考えにくく、周辺にも多くの建物が存在している可能性があります。どのような役割を持った建物だったのか、今後の調査に期待されます。

南調査区全景(南より)

南調査区全景(南より)

南調査区平面図(1/250)

南調査区平面図(1/250)

大藤原京(だいふじわらきょう)関連遺跡 第60次調査 〔NO.2〕

 大藤原京関連遺跡第60次調査は、近鉄大阪線大福駅のすぐ南側、東八坊坊間路(ぼうかんろ)東側溝が見つかった第59次調査地の南でおこないました。
 今回の調査では、中世の素掘溝(すぼりみぞ)のほか、古代の遺構と考えられる南北方向の溝が数条とピットが見つかりました。このうち溝には第59次調査で見つかった東八坊大路東側溝の延長上にあたるものがあり、出土遺物が藤原京期~奈良時代頃のものであることから道路側溝と考えられます(SD-101)。
 またこの溝から約7メートル離れた場所にも溝があり、坊間路の道路側溝の幅と一致することから、この溝と合わせて東八坊坊間路の側溝となる可能性が考えられます。

SD-101(南より)

SD-101(南より)

東新堂(ひがししんどう)遺跡 第12次調査 〔NO.10〕

 東新堂遺跡は1940年に厚芝保一氏によって、弥生時代前期の土器が出土したという報告があり周知された遺跡です。これまで11回の発掘調査で、縄文時代後期の流路跡や土器、平安時代中頃の掘立柱建物のほか、中世頃までの遺構や遺物が見つかっています。また東新堂遺跡は大藤原京の推定範囲にも入っていて、北四条大路、東九坊大路と東九坊坊間路が遺跡の中を、さらに北五条大路と東八坊大路がすぐそばを通っていることが推定されています。
 第12次調査は対象地が広いため、第1~6調査区まで調査区を設定しておこないました。今回は縄文時代後期や平安時代などの遺構や遺物の他、大藤原京の条坊道路が見つかる可能性がありましたが、ほとんどが中世の素掘溝で削られていました。
 第1・2調査区は東八坊大路、第6調査区は東九坊坊間路が通ることが推定されましたが、調査区一面に素掘溝が掘られていて、中世以前の遺構は見つかりませんでした。第5調査区では中世の素掘溝はあまり見られませんでしたが、近~現代頃に掘られたと考えられる井戸などが見つかりました。
 第4調査区では中世の素掘溝はほとんど見つかりませんでしたが、所々にピットが掘られていました。地元の人に開いたところ、調査地周辺では瓦用の粘土を採取していたという話があり、これらのピットはその時のものと考えられます。
 第3調査区も中世の素掘溝が掘られていましたが、それらに削られてはいたものの、奈良時代後半頃の柱穴や溝が見つかりました。この柱穴は4基見つかっていますが2基は四角く、2基は丸いものであることから、建物は2棟あったと考えられます。

第3調査区南側(上が北)

第3調査区南側(上が北)

木製品の保存処理

 木材などの有機質のものは長い年月がたつと腐朽(ふきゅう)していき、大抵のものは存在自体がなくなってしまいます。しかしながら、低湿地や川、溝など地下水が豊富な条件下では水浸しの状態でその存在が残っているものがあります。一見それらの木製品は形状を保っているようにみえますが、木材の成分の多くは分解され水によってかろうじて形状を保っているだけです。乾燥させると著しい変形が起こりますし、水浸し状態のままでも、展示や公開をすることができません。そのため出土木製品に含まれる水分を安定した薬品に置き換え(含浸(がんしん)させ)て強化するために保存処理をおこなう必要があります。
 当センターでは、平成6年に保存処理機を導入し、ラクチトールやトレハロースを用いた糖アルコール含浸法による保存処理をおこなってきました。この処理方法では、糖アルコールが木材から失われた細胞成分と似た性質を持つため、質感がよく仕上がります。また、作業的にも安全で、簡易な機器でおこなえることなど、私たちのように小規模な機関にとっては、非常に有用な処理方法です。

 具体的な保存処理の手順を記すと、まず洗浄し、薬品を用いて木製品に含まれるアクや鉄分などを抜き取ります。
 次にラクチトールとトレハロースを混合した水溶液に木製品を漬け、数か月かけて水溶液を濃縮させながら、ゆっくり含浸させます。木製品に溶液が十分に合浸されていることを確認できたら、溶液から引き揚げて余分な溶液を温水で洗い流し、乾燥させます。その後、表面のクリーニング、必要な補修をおこないます。

 上記のような手順を経て木製品の保存処理は完成し、処理された木製品は、展示や保管されることになります。
 当センターで保存処理がおこなわれるようになって、保存できた木製品の数を飛躍的に増やすことができ、展示室などで多くの資料を公開することができました。

 今後とも出土遺物の良好な保存と迅速な公開をするために、保存処理技術の向上に努めたいと思います。

保存処理中の木製品

保存処理中の木製品

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
電話:0744-42-6005
FAX:0744-42-1366