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平成27年度速報展

『平成26年度発掘調査速報展21』

平成27年4月22日~9月27日 桜井市立埋蔵文化財センター
『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋

~発掘調査報告会のお知らせ~
日時:平成27年9月12日(土曜日)13時30分~16時
場所:桜井市立埋蔵文化財センター 2階 多目的室
内容:

  • 「大福遺跡第31・32次調査」
  • 「纒向遺跡第183次調査」
  • 「谷遺跡第27次調査」
  • 「阿部地区の調査―谷首古墳と安倍寺跡―」

(聴講には入館料が必要です。)

はじめに
 桜井市には、纒向遺跡をはじめ多くの遺跡が存在し全国的にも注日されています。桜井市立埋蔵文化財センターでは、市民のみなさまにこれらの文化遺産をより身近に感じていただくために、市内遺跡の発掘調査で出土した遺物の展示・公開に取り組んでいます。
 今回の速報展では、平成26年度におこなわれた発掘調査の成果を紹介します。昨年度は14件の調査をおこない、纒向遺跡では建物跡や卜骨(ぼっこつ)の出土、安倍寺跡では安倍寺の関連施設と考えられる建物跡など、桜井市の歴史を読み解くうえで重要な発見がありました。
 このように50センチメートル下に広がる桜井市の新たな発見を速報としてみなさまにお届けします。この展示会をきっかけに桜井市の文化遺産に親しんでいただければ幸いです。

平成26年度発掘調査

  1. 大藤原京関連遺跡 第62次(調査期間)2014年3月6日~4月12日(調査面積)380平方メートル
  2. 横内遺跡 第11次(調査期間)2014年4月10日~4月22日(調査面積)60平方メートル
  3. 谷遺跡 第27次(調査期間)2014年6月16日~7月19日(調査面積)200平方メートル
  4. 谷首古墳 第3次(調査期間)2014年7月16日~9月19日(調査面積)265平方メートル
  5. 纒向遺跡 第182次(調査期間)2014年8月1日~9月16日(調査面積)165平方メートル
  6. 大福遺跡 第31次(調査期間)2014年8月5日~9月9日(調査面積)160平方メートル
  7. 大福遺跡 第32次(調査期間)2014年9月11日~9月29日(調査面積)162平方メートル
  8. 安倍寺跡 第22次(調査期間)2014年9月18日~10月17日(調査面積)72平方メートル
  9. 城島遺跡 第48次(調査期間)2014年10月21日~10月27日(調査面積)17平方メートル
  10. 纒向遺跡 第183次(調査期間)2014年10月27日~2015年2月6日(調査面積)214平方メートル
  11. 纒向遺跡 第184次(調査期間)2014年10月27日~12月9日(調査面積)284平方メートル
  12. 谷遺跡 第28次(調査期間)2014年12月3日(調査面積)45平方メートル
  13. 大福遺跡 第33次(調査期間)2014年12月15日~12月26日(調査面積)75平方メートル
  14. 大藤原京関連遺跡 第63次(調査期間)2015年3月4日~3月27日(調査面積)200平方メートル

 

平成26年度の発掘調査

大福(だいふく)遺跡 第31・32次調査 〔NO.6、7〕

 桜井市では、奈良県遺跡地図に掲載されている大字大福地内の「大福遺跡」と、同じく大福地内から橿原市常盤町に広がる「坪井・大福遺跡」の桜井市側の大福地区を含んだ範囲のすべてを『大福遺跡』として調査をおこなっています。
 しかしながら「坪井・大福遺跡」は弥生時代中期の環濠集落(かんごうしゅうらく)を中心とした遺跡、「大福遺跡」は弥生時代後期を中心とした遺跡とされており、本来は区別して取り扱うべき遺跡かもしれません。
 近年、両遺跡の中間地域の調査が増え、空間的なつながりだけでなく時期的にも継続する可能性があり、二つの遺跡を一体のものとして扱うべきとの考え方も提示されています。
 このように研究者の立場によりこの周辺一帯の遺跡の呼称が異なるため、いささか煩雑(はんざつ)ですが、いずれにしても、桜井市が『大福遺跡』と呼んでいる範囲は、奈良盆地を代表する弥生時代の集落が存在していたことに間違いありません。

【第31次調査】

 本調査地は、埋納(まいのう)された銅鐸が出土した大福小学校の南側に隣接している地点で、大福遺跡の中でも弥生時代後期の遺構が集中する地域です。
 調査の結果、北東―南西方向の平行する2本の溝がみつかりました。この2本の溝幅は、それぞれ3.5m、3.1mと比較的大きいものです。また、溝の埋土からは多量の弥生時代後期の土器が出土しました。
 調査地周辺では、今回のように規模の大きい弥生時代後期の溝が散見(さんけん)されていて、埋土からも多くの遺物が出土しています。このような状況から、周辺に集落があったことが想定されていますが、明確な住居跡は未だ発見できていません。
 現状で、これらの溝が集落の中でどのような機能をもっていたのかを特定することは困難です。各調査で確認されている大規模な溝などの遺構を総合的に検討し、大福遺跡の弥生時代後期の集落像を具体的に描くことが今後の大きな課題となります。 

平行する2本の溝(南西から)

平行する2本の溝(南西から)

南溝遺物出土状況(北西から)

南溝遺物出土状況(北西から)

【第32次調査】
 本調査は、約4万平方メートルの対象範囲において、遺構の状況を知るためにおこなった試掘(しくつ)調査です。この調査は、対象地域に3mx3m規模の調査区を18か所設けたグリッド調査でした。
 調査の手法上、詳細な遺構の状況まで知ることができませんでしたが、西側では弥生時代の中期の遺物が、南東付近では弥生時代後期の遺物が出土しました。これは、西側に中期の環濠集落の存在、東側には後期の集落があると想定したこれまでの見解を裏付ける結果となりました。
 また、調査面積に対して、遺構や遺物が多く確認され、大福遺跡が奈良盆地を代表する弥生時代の集落であるという評価を再認識することとなりました。

調査区断面(西から)

調査区断面(西から)

纒向(まきむく)遺跡 第183・184次調査 〔NO.10、11〕

【第183次調査】
 調査地はJR桜井線巻向駅の北東に位置し東西に細長い微高地上にあり、第180次調査地に隣接します。この微高地を太田北微高地と呼んでいます。多くの遺構は微高地上に展開しています。調査区は南北約20m、東西約10mの214平方メートルです。今回の調査でも多くの遺構を検出しました。

建物H 調査区南半で検出した小規模な建物です。東西2間(約4.4m)、南北2間(約4.4m)の正方形の建物です。遺構の切り合い関係から、建物Hは布留0式期(3世紀後半)の建物と言えます。
 建物Hは真北に対して東へ約7~8度傾いています。この傾きは建物Hの北約11.2mを通る東西溝SD-1006とよく似ています。
 SD-1006は布留0式期の埋没と考えられるので、時期も矛盾しないことから、共存していた可能性があります。大型建物を含む3世紀中頃以前の建物群の廃絶後も、何らかの施設が展開していたことを示しており、当地の土地利用を考える上で重要な成果です。

SX-1001 調査区を北東―南西方向に走る溝で、第180次調査でも検出しています。今回の調査で幅約3.2m、長さ24.2m以上、深さ約1.0mをはかる人工の溝であることがわかりました。
 埋没時期は土器からみて庄内2式期(3世紀前半)を遡(さかのぼ)らないと考えられます。第180次調査で検出した建物F(建物B・C・Dと同軸、同角度)はこの溝が埋没した上から作られています。そのため、建物Fは庄内2式期以降に作られたと言えます。
 仮に建物B・C・Dと建物Fが共存しているなら、建物群の上限は庄内2式期以降といえます。建物BとCは3世紀中頃の溝によって壊されているので、建物群は3世紀前半につくられ、3世紀中頃までに壊されている可能性がでてきました。

SK-1005 第180次調査とまたがって検出した楕円形の士抗で、長径約2.2m、深さは約1.1mをはかる土抗です。この土抗は全体に布留0式期~1式期(3世紀後半~4世紀初頭)にかけて埋没したものと考えられます。
 この土抗の下層から、卜骨(ぼっこつ)が1点出土しています。卜骨は古代東アジアに広く見られる、骨に焼灼(しょうしゃく)を加えて(焼いて)占いを行う風習を示すものです。卜骨はイノシシの右肩甲骨を素材とするもので、若い成獣の骨を使用しています。
 なお、SK-1005のすべての遺物を洗浄できてはいませんが、今のところ他に祭祀に関わる遺物は検出できていません。土抗の性格も不明です。出土遺物としては他に土器、木製品、獣骨などが確認されています。

SX-1001の中層出土遺物

SX-1001の中層出土遺物

調査区全景(上が南東)

調査区全景(上が南東)

【第184次調査】
 調査地は纒向遺跡の北西隅に位置し、合計5か所の調査区を設定しておこないました。今回の調査では、素掘溝や河川跡のほか、柱穴を検出しました。
 このうち素掘溝では瓦器(がき)わんなどが出土していることから中世のものと考えられます。さらに河川の堆積がこの素掘溝を埋めている状況で、同じ中世の遺物がこの堆積から出土しています。
 また素掘溝の基盤となる層位では、古墳時代前期の土器が出土しました。出土状況から遺構に伴うものではなく、自然に堆積する中で土器が埋まったものと考えられます。いずれにしても、纒向遺跡の中心部に比べると遺物の出土量が少ないことから、集落域からは外れていたと考えられます。

第2調査区全景〈南東から)

第2調査区全景(南東から)

谷(たに)遺跡 第27次調査 〔NO.3〕

 谷遺跡は大字阿部・吉備・安倍木材国地にまたがって所在する遺跡です。過去の調査では玉の未成品や剥片(はくへん)、鉄滓(てっさい)や鞴(ふいご)の羽口(はぐち)といった玉造や鉄生産に関わる遺物が出土しており、古墳時代後期の工房の存在が想定されています。
 調査地は遺跡の東側縁辺郡に位置しています。今回の調査では、主に古墳時代中期から後期の遺構を確認しました。調査区の南端で部分的に検出した土抗からは、古墳時代中期頃の完形の土器群や多数の農具などを含む木製品が出土しています。この土抗の北側では東西方向の溝が検出され、鉄釘(てつくぎ)や墨書(ぼくしょ)のある木製品などが出土しました。
 東西溝の上面には沼状の粘質土の堆積が広がっており、古墳時代後期~飛鳥時代にかけての土器とともに、獣肯や馬歯などが多数みつかっています。これは本来北に向かって谷が開口していたため、その内部は沼地になっていたようです。
 調査区中央付近で検出した古墳時代中期頃の住居遺構では、韓式系(かんしきけい)土器などとともに絵画土器が出土しました。この絵画土器は土師器高杯の脚柱部に長い胴体とヒレのついた手足のような線が描かれており、こうした表現から龍を描いている可能性があります。
 これまで遺跡西側において古墳時代後期の居住域の存在が明らかになっていますが、今回古墳時代中期と考えられる住居遺構が検出されたことで、遺跡東側に同時期の居住域が広がる可能性が出てきました。また、周辺の旧地形を復原する手がかりを得ることが出来ました。今後のさらなる調査で谷遺跡のより具体的な様子が明らかになることを期待したいと思います。

竪穴住居の全景(北から)

竪穴住居の全景(北から)

調査区南側で見つかった木製品

調査区南側で見つかった木製品

竪穴住居で見つかった絵画土器

竪穴住居で見つかった絵画土器

竪穴住居で見つかった絵画土器

竪穴住居で見つかった絵画土器(展開図)

横内(よこうち)遺跡 第11次調査 〔NO.2〕

 横内遺跡は桜井市の西部に位置する大字吉備・大福地内に広がる遺跡で、弥生時代の竪穴式住居や藤原京の条坊(じょうぼう)道路などが見つかっています。
 第11次調査は、大型の建物跡が発見された第10次調査地のすぐそばでおこなわれました。東西に長い第1調査区と南北方向の第2調査区の2か所を設定し調査したところ、第1調査区では古代の旧河道(きゅうかどう)や柱穴などが見つかり、旧河道からは土器や瓦のほかに横櫛(よこぐし)が出土しました。
 第2調査区でも旧河道が見つかりました。この旧河道の最下層からは弥生時代後期の土器が出土しており、上層では古墳時代後期の須恵器が出土しています。この旧河道のさらに上の堆積からは古墳時代前期の土師器や古墳時代中期の須恵器が出土しています。これらの土器は、旧河道上層で出土した土器より時期が古いため、第2調査区に隣接している第10次調査地の丘陵上から旧河道が埋没した後に転落してきたものと考えられます。

第1調査区 旧河道〈南から)

第1調査区 旧河道(南から)

第2調査区 出土土器

第2調査区 出土土器

谷首(たにくび)古墳 第3次調査 〔NO.4〕

 谷首古墳は桜井市の南部に位置する7世紀前半の方墳です。南側に開口部を持つ横穴式石室が確認されており、県の史跡に指定されています。現在は、墳頂部に八幡神社の社殿が鎮座しており、地元の方々にも親しまれています。
 過去の調査で墳丘上に中世の建物の痕跡や、墳丘のすぐ東側では堀が確認されていることから、谷首古墳は中世に砦として機能していたと考えられています。今回は谷首古墳の北側に広がる丘陵上に東西に長い調査区と、南北の調査区を設定し調査をおこないました。
 その結果、南北の調査区の南端から落ち込みが見つかりました。この落ち込みは、調査地と谷首古墳の間を通っている道とほぼ同じ高さまで落ち込んでいました。規模や検出位置などから谷首古墳の掘割(ほりわ)りの可能性が考えられます。しかし、斜面が階段状に掘削されていることや染付の茶碗が下層埋土から出土することから、この掘割りは近世以降に埋没したと考えられ、後世に改変されている可能性が高く谷首古墳築造当時そのままの形状ではないと言えます。

 東西に長い調査区の東端では、新たな古墳の石室を発見することができました。今回見つかった石室は横穴式石室で、石室の掘り方の規模は長さ9m、幅3mでした。ほぼすべての石材が抜き取られていたため玄室(げんしつ)の規模や形態について断定することはできませんが、石室内にひとつだけ原位置を保っている可能性のある石材が残っており、それを元に復元すると玄室の幅は約1.4mであったと推測できます。副葬品はほとんど残っておらず、確実にこの石室の副葬品であると思われるものは刀子(とうす)が1点出土したのみでした。
 この古墳の時期については、谷首古墳との位置関係から考えて谷首古墳より以前に築造された可能性が考えられますが、土器は小片が出土したのみで、古墳の築造時期を断定することはできませんでした。

調査区全景(上が北)

調査区全景(上が北)

石室全景(上が西)

石室全景(上が西)

安倍寺(あべでら)跡 第22次調査 〔NO.8〕

 安倍文殊院(あべもんじゅいん)のすぐ南西に位置している安倍寺跡は、現在は安倍寺史跡公園として整備されています。安倍寺は「崇敬寺(すうけいじ)」とも呼ばれ、平安時代末ごろに記された『東大寺要録(とうだいじようろく)』には「安倍倉橋大臣(阿倍倉橋麻呂(あべのくらはしまろ)」が建立したという記述がみられます。
 近年の研究で、安倍寺の創建年代は7世紀半ばにあたると考えられており、この年代が阿倍倉橋麻呂の活躍する時期と重なることから、安倍寺が阿倍氏の氏寺であったと考えられています。伽藍配置は法隆寺式であったと考えられており、過去の調査で、西の寺域を示す西面大垣(さいめんおおがき)と思われる石垣が見つかっています。
 第22次調査地は、安倍文殊院の南西、安倍寺史跡公園の北東に位置しています。調査区の中央付近から1辺1.5mほどの方形(ほうけい)の柱穴が9基見つかりました。各柱穴の規模や埋土が類似しており、これらが1つの建物を形成していたと判断できます。柱穴の掘り方から瓦片が出土することから、安倍寺の創建後である7世紀後半以降に建てられた建物と考えられます。
 安倍寺との位置関係や柱穴の規模から考えて、安倍寺に関連した施設と考えていますが、この建物の形態がはっきりとわかってはいないのでどのような施設であったか断定することはできません。
 寺域内の建物配置がよくわかっている奈良市に所在する西大寺やその尼寺(にじ)である西隆寺の発掘成果を参考に推測すれば、安倍寺の食堂院(じきどういん)か、もしくは政所院(まんどころいん)内の施設のひとつである可能性を考えることができます。今後、周辺の調査が進む中で、今回検出した建物の性格が明らかになることを期待したいと思います。

調査区中央で見つかった建物跡(西から)

調査区中央で見つかった建物跡(西から)

大藤原京関連(だいふじわらきょうかんれん)遺跡 第62次調査 〔NO,1〕

 藤原京は、碁盤目状(ごばんめじょう)にはりめぐらされた道路と規格的な街区で構成された条坊(じょうぼう)制による都城で、694年から約16年間使用されました。今回の調査は、大字大福地内、藤原京の位置でいうと東六坊大路と北四条大路の交差点付近でおこなわれました。
 調査の結果、藤原京に関連する遺構を見つけることができませんでした。調査地が寺川の近くということもあり、その当時は居住に適さなかった場所だったと思われます。そのかわり、11世紀及び13世紀の100基を超える柱穴、井戸などを見つけることができました。その頃になると、河川の幅が安定し集落が営まれるようになったのでしょう。
 この地域一帯は「大福」の地名由来となった興福寺の荘園である「大仏供荘」があった場所で、今回の遺構はそれらの荘園を担っていた人々の集落の跡だと思われます。河川の影響もあり古代の遺構が希薄な場所でしたが、中世の居住域が確認できたのは大きな成果でした。

調査区全景(北から)

調査区全景(北から)

柱穴検出状況

柱穴検出状況

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
電話:0744-42-6005
FAX:0744-42-1366