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平成28年度速報展

『平成27年度発掘調査速報展22』

平成28年4月20日~10月2日 桜井市立埋蔵文化財センター
『50センチメートル下の桜井』解説書 より抜粋

~発掘調査報告会のお知らせ~
日時:平成28年9月10日(土曜日)13時30分~15時30分
場所:桜井市立埋蔵文化財センター 2階 多目的室
内容:

  • 「桜井公園遺跡群 第7次調査」
  • 「二反田古墳の調査」
  • 「城島遺跡 第49次調査」

(事前申し込みは不要ですが、聴講には入館料が必要です。)

はじめに

 桜井市内には纒向遺跡をはじめとし全国的に注目される遺跡が数多く存在しています。桜井市立埋蔵文化財センターでは、市民のみなさまにこれらの文化遺産をより身近に感じていただくために、市内遺跡の発掘調査で出土した遺物の展示・公開に取り組んでいます。
 今回の速報展では、平成27年度におこなった発掘調査の成果を紹介します。昨年度は10件の調査をおこない、城島遺跡では古墳時代の水田跡、大福遺跡では弥生時代の溝、纒向遺跡では二反田古墳の葺石や周濠を確認するなど、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。これらの調査成果を出土した遺物とともに、速報としてみなさまにお届けします。この展示会をきっかけに桜井市の文化遺産に親しんでいただければ幸いです。

平成27年度発掘調査

No. 調査名 調査期間 調査面積
1 城島遺跡 第49次 2015年4月9日~6月1日 240平方メートル
2 大福遺跡 第34次 2015年4月21日~6月8日 107.5平方メートル
3 大福遺跡 第35次 2015年8月21日~10月8日 110平方メートル
4 纒向遺跡 第185次 2015年11月24日~12月17日 60平方メートル
5 大藤原京関連遺跡 第64次 2015年12月7日~12月9日 16平方メートル
6 大福遺跡 第36次 2015年12月10日 12平方メートル
7 纒向遺跡 第186次 2016年1月5日~2月9日 63平方メートル
8 桜井公園遺跡群 第7次 2016年2月5日~3月11日 109平方メートル
9 纒向遺跡 第187次 2016年3月2日~3月23日 56平方メートル
10 纒向遺跡 第188次 2016年3月21日~3月22日 20平方メートル

 

城島遺跡 第49次調査 〔NO.1〕

 城島遺跡は三輪山西南麓に位置し、初瀬川と粟原川が盆地内に流れ出る際に形成した扇状地上に立地する遺跡で、範囲内には第29代欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)の推定地も含まれています。調査地周辺の過去の調査では、弥生から中世まで幅広い時期の遺構が確認されています。
 今回の調査では東西2ケ所に調査区を設定し、それぞれ古墳時代から古代にかけての遺構が確認されました。この中で特に注目されるのは、古墳時代の水田遺構がとても良好な状態で確認されたことです。
 水田遺構は、厚さ20~30センチメートル程の砂の堆積の下から検出されました。そのため、畦(あぜ)などの痕跡も良好な状態で保存されていました。水田1枚あたりの大きさは、最大のもので東西約5.5m、南北5m以上で、面積は30平方メートル前後になるものと考えられます。こうした小規模な水田は地形の傾斜に沿って作られており、調査区の西側の一番低い位置には排水に使用されたと考えられる溝が設けられていました。
 これらの遺構の他に、農具の痕跡や人の足跡が砂に埋没して残されており、当時の人々の生活の様子がうかがえます。しかし、6世紀の前半から中頃までには河川の氾濫(はんらん)にあい、洪水で流されてきた砂に埋もれてしまったようです。
 古墳時代の水田が埋没した後には、柱穴が複数見つかり建物が存在していたことが判明しました。すぐ東側でおこなわれた第7次調査では、7世紀代の建物跡が複数見つかっているため、何らかの関連性が考えられます。ただし東へ向かう程遺構は希薄になっていくため、調査地は建物跡の見つかった範囲のやや外れに位置するようです。
 このように今回、城島遺跡内で初めて古墳時代にさかのぼる水田遺構を確認したことで、古墳時代の水田遺構の全体像や、集落と耕作地を含めた当時の景観を復元する手掛かりを得ることが出来たといえます。 

第1調査区全景(東より)

第1調査区全景(東より)

水田に残された足跡

水田に残された足跡

大福遺跡 第34・35次調査 〔NO.2、3〕

 桜井市が「大福遺跡」と呼んでいる範囲には、弥生時代中期を中心とした環濠集落と、弥生時代後期を中心とした集落が存在していたと考えられています。この2つの集落は、空間的にも時期的にも連続することから、密接な関係にあると考えられています。集落の規模や出土する遺物などから、各々の時代で、奈良盆地を代表するような集落と位置づけられています。
 第34・35次調査は、その中でも弥生時代中期の環濠集落推定範囲の北辺にあたる場所でおこなわれました。環濠集落は複数の大規模な溝に囲まれているのが特徴で、北辺部にあたるこの範囲でも集落を区画するような溝が発見されることが期待されました。
 調査の結果、2つの調査区にわたる弥生時代中期の落ち込みや、その落ち込みに削平された弥生時代中期初頭や中葉の溝、また、中世の大溝や耕作に関連する遺構が見つかりました。弥生時代中期ごろの落ち込みはほぼ南北方位のもので、埋土や規模などから寺川本流に合流していくような自然河道と思われます。これに削平される形でみつかった弥生時代中期の溝のうち第35次調査でみつかった東西溝は幅2.7mの規模で集落を区画する溝の可能性があります。それより古い弥生時代中期初頭の溝は直角に曲がる小規模な溝で、方形周溝墓の可能性があります。環濠が整備される前に墓域があったことを示すものになるかもしれません。環濠集落の縁辺部の土地利用の変遷がわかる成果となりました。
 また、弥生時代以外では中世(14世紀頃)の遺構や遺物が多く見つかっているのは面白い成果でした。幅の大きな溝や中世土器が多く出土し、近くに中世集落があったことが想定されます。調査地周辺は大福の名前の由来となった「大仏供」庄と呼ばれる庄園がひろがっており、それらに関連する人たちの集落域が近くにあったのかもしれません。

調査区位置図

第34次調査区全景(南より)

第34次調査区全景(南より)

第35次調査区全景(南より)

第35次調査区全景(南より)

桜井公園遺跡群 第7次調査 〔NO.8〕

 桜井公園が位置する安倍山は標高120m前後の丘陵で、頂部からは北西側に広がる奈良盆地が見渡すことができる眺めの良い場所です。また、丘陵の北側には東西道路である初瀬街道があり、その道路から丘陵の西側を通り飛鳥に至る阿部街道が、東側には吉野方面に通ずる多武峰街道が南北に通るなど、この丘陵は交通の要地に位置しています。そのため、丘陵上には、弥生時代後期の集落、古墳時代前期末の古墳や横穴式石室をもつ後期古墳、中世の城郭など様々な時期の遺跡が存在しています。
 今回調査をおこなったのは、安倍山丘陵の東斜面です。周辺でおこなわれた第6次調査では弥生時代後期(2世紀)の3重の溝がめぐることが確認されています。それにより、弥生時代後期には丘陵上に居住域をつくり、それを複数の溝で囲むような、非常に防御性の高い集落があったことが想定されています。今回の調査区からも、第6次調査の溝の続きと思われる丘陵を取り囲むような幅2.5m,深さ1.2mの溝が確認され、その溝の埋土からは弥生時代後期の遺物がたくさん出土しました。甕、壷、高坪、器台などの土器や、砥石、石鏃などです。これらの遺物は、溝に廃棄されたものと考えられ、周辺に居住域があったことを示すものです。
 何のために、丘陵上に防御性の高い集落をつくったのでしょうか?集落同士で抗争が発生し、世の中が緊張状態になっていたのかもしれません。ただ、一方で、周辺には安倍寺、谷、横内遺跡などの平地部の集落も多く存在します。これらの集落間が敵対関係にあったとは考えにくく、どちらかといえば親しい関係にあったと考えられます。平地部の集落と丘陵の集落とそれぞれに異なった役割があったものと思われます。周辺の集落との関係を理解することで、より丘陵上に築かれた集落の性格が明らかになるでしょう。このように、今回の成果は弥生時代後期の社会を考える上で非常に興味深い成果でした。

検出された溝(北西より)

検出された溝(北西より)

溝から出土した遺物の様子(北より)

溝から出土した遺物の様子(北より)

纒向遺跡 第186次調査(二反田古墳 第1次) 〔NO.7〕

 纒向遺跡第186次調査は桜井市の北部、天理市との市境付近に所在する二反田(にたんだ)古墳の第1次調査としておこないました。二反田古墳は、現況で一辺20mほどの方形の高まりが残っており、以前から古墳と認識されていましたが調査はおこなわれていませんでした。正しい古墳の形や墳丘の大きさ、築造された時期などがわかっていなかったため、今回の調査ではこれらのことを明ららかかにすにるすことるが期待されました。
 調査区を3ケ所設定し調査をおこなったところ、すべての調査区で葺石(ふきいし)を検出しました。葺石には拳大の石が使用されており、最下段ではおよそ50センチメートルの基底石(きていせき)を検出しました。基底石を検出したことによって、墳丘規模が現況よりも10m以上大きくなることがわかりました。
 今回の調査では多くの埴輪が出土しました。出土した埴輪の多くは鰭付楕円筒埴輪(ひれつきだえんとうはにわ)であると考えられる破片でした。鰭部については、突帯(とったい)が両面に及ぶものと片側のみのもの、突帯を貼り付けないものといった多様な種類が確認できました。埴輪の一部には赤色顔料が塗られているものもありました。その他にも、形は不明ですが、形象(けいしよう)埴輪と考えられる破片が出土しています。
 今回の調査では、古墳の北西側のみの調査だったため、東側や南側がどれだけ削平されているかわかりませんが、現況の残存している墳丘裾から葺石の基底石までの距離が30mになることから、墳丘規模は30m以上の方墳であった可能性があります。築造時期は出土した埴輪から考えると、古墳時代前期半ば頃であると考えられます。

二反田古墳(南西より)

第2調査区葺石検出状況(北西より)

第2調査区葺石検出状況(北西より)

調査風景

調査風景

纒向遺跡 第185次調査(箸墓古墳周辺 第20次) 〔NO.4〕

 箸墓古墳は纒向遺跡の南よりに位置し、3世紀中頃から後半に築造された最古の定型化した大型前方後円墳として、全国的に知られています。墳丘の大部分は陵墓として管理されていますが、古墳の周辺では調査がおこなわれ、内濠やそれを取り囲む外堤の存在、後円部南東側の渡り土堤、古墳の周りに大規模な落ち込み(外濠状遺構)などがあったことがわかってきています。
 今回の調査は、箸墓古墳前方部南端から南東方向に約100m離れた場所でおこなわれました。調査の結果、調査区は外濠状遺構の中に位置していることがわかりました。この遺構の埋土には、滞水により形成される腐植層と近くを流れる纒向川からなどの一時的な氾濫による砂層などがあることが確認され、外濠状遺構がどのように埋まっていったのかを把握することができました。
 箸墓古墳は、最初の大型前方後円墳として評価され、その古墳の実態を明らかにすることは、当該期の歴史の変遷を考える上でも大変重要です。今後も、周辺の調査を積み重ねることによって、箸墓古墳の実像に迫っていきたいと思います。

外濠状遺構の堆積状況(南西より)

外濠状遺構の堆積状況(南西より)

纒向遺跡 第187次調査 〔NO.9〕

 纒向遺跡の東寄りの丘陵地上、珠城山(たまきやま)古墳群と渋谷向山古墳の間を画する谷沿いでの調査となりました。調査地周辺は、かねてより布留式期の纒向遺跡の中心域と想定されていた場所にあたり、今回の調査でも古墳時代前期の遺構が検出されることが期待されました。
 調査の結果、明確に古墳時代前期といえる遺構は確認できませんでした。しかし、古墳時代後期頃と考えられる柱穴を複数確認しました。この柱穴の中には、約2mの間隔で東西3基、南北3基で北西方向に軸を振って並ぶものが存在し、少なくとも柱間が2間以上×2間以上の構築物が存在したようです。
 調査地南には、後期古墳である珠城山古墳群が存在することから、これらと関係する建物群が周辺に広がっていたのではないでしょうか。

調査区全景(北西より)

調査区全景(北西より)

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
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