現在の位置

発掘調査報告(150回~159回)

発掘調査現場から(159回)

広報「わかざくら」 平成12年2月15日号掲載

上之宮遺跡発掘調査

平成11年7月から約2カ月の間、上之宮遺跡において発掘調査が行われました。この上之宮遺跡は、聖徳太子が幼年期を過ごした上宮(かみつみや)跡とする説が有力です。その説にふさわしく、昭和62年に最初に調査が行われて以来、居館跡とみられる柱穴や石組の園池遺構をはじめとする遺構、また木簡、琴柱、べっ甲など盛期を偲ばせる多くの遺物が発見されています。
さて、今回の調査は南北30メートル、東西3メートルのトレンチより60~80センチメートルの柱穴が列を成して検出され、またその列に平行する20~60センチメートルの5本の溝も同時に検出されました。
柱穴列は建物などに対応し、塀や柵の役割を担っていたと思われます。なお、一部の柱穴から内 が施された柱の根元の部分が発見されました。この内 は運搬用に空けたものか、転用材なのかは現在検討中です。
溝の性格については今のところ不明ですが、溝が石組列を切ることから遺構がいくつかの時期にわたることが改めて確認できました。
遺物については、6世紀頃の須恵器や土師器が見つかったほか馬歯、獣骨、スラッグが発見されました。また、包含層より黄色と緑色に色分けしたガラス玉の破片が出土しました。
上之宮遺跡の北側については、過去の調査例があまり多くありません。今後調査例が増えるに従って、今回発見された遺構の性格もよりはっきりしてくるものと思われます。

上之宮遺跡発掘調査の写真

発掘調査現場から(158回)

広報「わかざくら」 平成12年1月15日号掲載

下り尾古墳群の発掘調査

下り尾古墳群の発掘調査が平成11年6月から12月まで行われました。
調査では山の尾根上から古墳時代後期の古墳が2基、7世紀中頃の飛鳥時代の木棺直葬墓と呼ばれる埋葬施設が11基、小石室が3基、方形区画を持つ墳墓が1基と様々な墓が確認されています。
古墳については後日の『発掘調査現場から』で紹介することとして、ここでは飛鳥時代の小石室と木棺直葬墓について見て行くこととします。
小石室は横穴式石室のミニチュア版とも言うべきもので、石室の造り方や構造は普通の横穴式石室と全く同じなのですが、明確な墳丘を持たず、穴を掘って地中に築かれたもので、石室の規模は長さが70センチメートル、幅が30センチメートルと非常に小さなものから長さ2.5メートル、幅90センチメートルとやや大きめのものまで、様々な大きさのものがあの真下。これらの内、規模の大きなものは棺材を留めるのに使用した鉄釘が出土しており、寝棺を埋葬したものであることが解っていますが、規模の小さなものは遺体を骨だけにした後に再葬墓と考えられています。
木棺直葬墓は穴を掘って寝棺を納めただけの簡単な構造のもので、副葬品は少なく、それぞれ須恵器が1、2点と鉄釘だけしか出土しないものが殆どでしたが、10号墓と呼ばれる墓からは直径3センチメートル程度のドーナツ形の銅製の輪に金を巻き付けた金環と呼ばれる耳輪が出土しています。
これらの墓はいずれも簡単な構造のものばかりでしたが、当時の埋葬方法としては比較的丁寧に葬られており、ごく一般の人々の墓というよりは特定の集落の出身で、低いながらもある程度の身分(村の有力者や役人など)の人々が葬られた集団墓地の様な場所であったと考えられます。

発掘調査現場から(157回)

広報「わかざくら」 平成11年11月15日号掲載

4世紀の焼失住居(安倍寺遺跡調査)

安倍寺遺跡の第9次調査において、4世紀の竪穴式住居とそれに平行する杭跡が検出されました。これまで安倍寺遺跡では同時代の多量の土器や溝や土坑などの遺構を確認しており、比較的密な遺構の存在が予想されていましたが、今回の調査によりその一端を垣間見る事ができました。
竪穴式住居からは、沢山の炭化木材と焼土と、それらに紛れて多量の完形品の土器が出土しました。土器は特に南東隅から多く出土し、中には小型丸底壷が入れ子になっていたり、甕の半分に切ったものに蓋をする様に高坏が伏せられていたりと、住居内での土器の使用方法が伺われる状況でした。また出土した甕の一つからは炭化米がフィルムケースに2個分程残っていたり、木質が付着している刀とみられる板状の鉄製品も出土しています。
この竪穴式住居は炭の検出状況からみて焼失住居になると考えられます。ただし故意に燃やしたのか、事故で燃えたのかを判断する材料を見付けることはできませんでした。
今回の調査では他に6世紀の竪穴式住居と7世紀の掘立柱建物も検出され、隣接する安倍寺跡と吉備池廃寺の時間的地理的な間を埋める遺構群も存在する事がわかりました。

安倍寺遺跡調査の写真

発掘調査現場から(156回)

広報「わかざくら」 平成11年9月15日号掲載

織田小学校校舎建て替えに伴う発掘調査を、4月から6月にかけて行いました。調査対象地はかつての芝村藩陣屋、つまり、江戸中期から幕末にかけて織田家の屋敷地兼役所だった場所です。小学校となった今でも当時の石垣が残り、周辺には濠や屋敷割の名残が見られ、往時の風情が偲ばれます。
トレンチは東西12.5メートル×南北14メートルと拡張区東西4メートル×南北11メートルで設定し掘削を開始したところ、地表面より約40センチメートルで遺構面に達しました。多くの土坑などが見つかったなかで、陣屋に伴う遺構として溝(SD-1001)、柱穴(SK-1007、1010)が検出されました。
SD-1001は、北東から南西にかけて幅40~60センチメートル、深さ約50センチメートル程に掘削されており、一部石が組まれていました。石組は溝の両側に50センチメートル大の石を4個づつ並べて置いてあり、板などを渡して橋にしていた箇所と思われます。なお、元々この溝は素掘溝ではなく、木樋や貼石などが施され排水溝や区画溝などとして使用されたと思われます。
SK-1007,1010はどちらも深さ約50センチメートルで、底辺には40センチメートル大の偏平な根石が据えてあり、根石のまわりには10センチメートル前後の栗石を数個確認できました。しかし、柱は抜き取られたらしく残っていませんでした。
また、陣屋廃絶の際に瓦を廃棄するために掘削されたと思われる土坑から、多量の瓦が割れた状態で出土し、中には織田家の家紋や巴紋をあしらった軒丸瓦などが発見されました。
下層面には遺構はみられませんでしたが、弥生中期から鎌倉期にかけての土器片が出土しました。これらは、近辺の集落から洪水によって流されてきたものと思われます。土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。このうち埴輪類は、陣屋構築の際、整地のために付近の古墳等から土を採り、その時に混じったものと思われます。 今回は桜井市では調査例が少ない近世遺跡の発掘であり、そういった意味では貴重な資料の一つとして今後活用されればと思います。

発掘調査現場から(155回)

広報「わかざくら」 平成11年8月15日号掲載

馬場山の神遺跡の調査

山の辺の道にほど近い大字茅原の馬場山の神遺跡において第1次調査を行い、石組を持つ土坑を検出しました。トレンチの南西隅で検出されたため遺構の全体は確認できませんでしたが、検出した遺構の平面形と断面で確認した形状から、径約2.3メートル、深さ1.2メートルのやや斜めに掘り込む不正円形の摺鉢状土坑と推測されます。
石組の中からは、口縁部が欠損した7世紀後半の須恵器の平瓶と土師器坏が、据えられた状態で出土しました。 この土坑は地盤の岩が風化した砂層まで掘り抜いている事などから井戸の可能性が高く、石組は土器の出土状況から、井戸を廃棄する際の祭祀の施設と考えられます。

馬場山の神遺跡の調査の写真

発掘調査現場から(154回)

広報「わかざくら」 平成11年7月15日号掲載

吉備遺跡の発掘調査

吉備遺跡の発掘調査が4月7日から4月14月まで行われました。
調査地は大字吉備地内のやや高い丘陵上で、藤原京の内部にあたる事や、近年百済大寺ではないかと話題になっている吉備池廃寺に近い事から、藤原京時代の遺構や遺物の発見が期待されましたが、予想に反して古墳時代前期の子供用の棺桶として利用された壷が出土しています。
壷は穴の底に寝かされた状態で、口の部分には遺体を中に納めた後、土が中に入り込まないように炊飯用の甕が蓋としてはめ込まれていました。
大きさは高さ75センチメートル、胴径61センチメートルと非常に大きな物でしたが、壷の口径は約20センチメートルと小さく、無事に生まれなかった子供や、生まれてすぐに亡くなった子供を埋葬したものと考えられます。
古墳時代の墓と言えばすぐに古墳が頭に浮かびますが、当時盛り土を持った大きな墓や、木棺と呼ばれる木製の棺桶に埋葬されるのは一部の権力者だけで、多くの人は穴を掘って埋めるだけという簡単な埋葬が主流だったようです。
発掘調査では一般の大人の墓を見つけるのは非常に困難ですが、子供は壷に納められている事が多いため、市内では纒向遺跡や芝遺跡、上之宮遺跡などで見つかっています。 大人の様にそのまま遺体を埋葬せず、壷や甕(かめ)などに納めて丁寧に埋葬するのは無事成長出来なかった我が子に対する愛情の表れの様に思われます。

発掘調査現場から(153回)

広報「わかざくら」 平成11年5月15日号掲載

大藤原京北三条条間小路跡

大福遺跡第18次は市道粟殿・大福線付設に伴うもので、120平方メートルを調査しました。調査の結果、大藤原京の東五坊北三条条間小路の道路側溝とその南側から堀立柱の痕跡が多数見つかりました。道路は側溝の芯芯間の幅が7.1メートルで側溝の幅は1.3~1.5メートルを測り、中からは土師器坏や須恵器坏・甕片が多量に出土しました。
今回の調査で出土した道路側溝は、復元図により推定されていた位置とほぼ合致しており、最近の調査の成果と合わせて、条坊の復元と大藤原京の範囲を確定させる資料の一つになりました。

大藤原京北三条条間小路跡の写真

発掘調査現場から(152回)

広報「わかざくら」 平成11年4月15日号掲載

東田大塚古墳の発掘調査

大字東田にあります東田大塚古墳の発掘調査が2月から3月にかけて行われました。調査は農道の整備事業に伴うもので、墳丘の裾部より東方へ約70メートルに亙って幅3メートルの調査区を設定しています。調査の結果、古墳の周囲からは幅約21メートル、深さ約1メートルの周濠の跡が確認されました。濠の中からは3世紀後半から末頃のものと見られる甕や壷・高坏などの土器類や、機織りの際の経巻具・有頭棒などの木製品が出土しています。 

この事から東田大塚古墳は少なくとも3世紀の末までには築造が終了していた最古級の前方後円墳である事が確認されました。
纒向遺跡には石塚古墳をはじめとして6基の前方後円墳が存在していますが、いずれの古墳も3世紀の中で築造された物である事はほぼ確実となりました。纒向遺跡の古墳群は前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。 

この他、周濠外側の肩部分からは埋葬施設が1基確認されています。この埋葬施設は西部瀬戸内系の大型複合口縁壷を棺として使用したもので、小児用の物と考えています。壷棺の蓋には外面を朱で真っ赤に塗られた東海地方系の壷が上半分を打ち欠いて使われており、棺と蓋が西と東の土器を使用した珍しい物である事が解りました。

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
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