現在の位置

発掘調査報告(160回~169回)

発掘調査現場から(169回)

広報「わかざくら」 平成13年2月15日号掲載

小立古墳の発掘 その3

小立古墳からは粘土を焼いて作られた埴輪のほか、木を加工して作られたいわゆる「木製埴輪」も発見されました。
「木製埴輪」の種類は「土製」形象埴輪とほぼ同じですが家形、甲冑形または鳥を除く動物、人物形のものはありません。
今回の調査では魔よけの意味を持つと言われる石見(いわみ)型、矢を入れる靫(ゆぎ)形や盾形、太刀形といった4種類18点が出土しました。このうち石見型木製品の表面には何らかの装飾を施すための穿孔(せんこう)や、直弧紋(ちょっこもん)と思われる紋様が肉眼で観察できますが、これは全国でも初めてのことです。また、靫形「木製埴輪」の出土も初めてです。
なお、「木製埴輪」は形が「土製埴輪」と似ていることから埴輪として使用されたと推測されていましたが、木製であるため土中で腐ってしまいはっきりとは判りませんでした。しかし、今回の調査で円筒埴輪7個を1セットとし、そのセット間から石見型木製品の基部が樹立した状態で見つかったことから、「土製埴輪」とともに墳丘上に立て並べられていたことが判りました。
このように今まで判らなかったことが次々に明らかになり、古墳に対するイメージは大きく変わってきています。小立古墳の調査成果は、そういったイメージをよりはっきりしたものにするのに貢献したと言えるでしょう。

小立古墳の発掘の写真 その3

発掘調査現場から(168回)

広報「わかざくら」 平成12年12月15日号掲載

下り尾古墳群の発掘調査2

『発掘調査現場から158号』で紹介しました下り尾古墳群の発掘調査について、今回は古墳時代の遺構について見て行くこととしましょう。
調査は平成11年6月から12月にかけて行われており、山の尾根上から古墳時代後期の古墳が2基、7世紀中頃の飛鳥時代の木棺直葬墓(もっかんじきそうぼ)と呼ばれる埋葬施設が11基、小石室が3基、方形区画を持つ墳墓が1基と様々な墓が確認されています。
このうち、カタハラ1号墳と呼ばれる古墳は西側に袖を持つ片袖式の石室で、現存長は約6メートル、羨道部(せんどうぶ)の幅約1メートル、長さ2.5メートル、玄室の幅約2メートル、長さは3.5メートル、ありました。羨道部の高さは1.5メートル、玄室の高さは3メートルであり、閉塞石などは残っていません。
天井は羨道部の天井石(高さ1.5メートルの地点)より上部を四方から持ち送っており、隅部には三角持ち送りの石材を入れ、天井をドーム型に仕上げた窮窿式(きゅうりゅうしき)よばれる石室の形態となっています。
奈良県には古墳が約1万基あると言われていますが、窮窿式石室は僅かに5基が確認されているだけの極めて珍しいものです。
市域では窮窿式石室の可能性のある古墳として桜井児童公園2号古墳が挙げられますが、昭和29年の調査時点で既に石室の上部が削平されており、残る石室も調査後の破壊によって現存しません。
カタハラ1号古墳は桜井市域では現存する唯一の窮窿式石室を持つ古墳として重要な位置を占めるものであり、築造時期については石室出土の須恵器などから6世紀中頃のものと考えています。

カタハラ1号墳の石室の様子図

発掘調査現場から(167回)

広報「わかざくら」 平成12年11月15日号掲載

小立古墳の発掘 その2

前回の「発楯調査現場から」では、小立古墳の概略についてお話しました。今回は出土遺物、特に埴輪にスポットを当ててみたいと思います。
出土した埴輪には筒状の円筒埴輪、先端がラッパ状に開く朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)、動物や武具などをかたどった形象埴輪(けいしょうはにわ)がありました。
円筒埴輪は、後円部の1段目と2段目の間のテラス面に7個を1セットにして配置されていました。この中には朝顔形埴輪も並べられていたと思われますが、上部が割れているため何個毎に置かれていたかは不明です。今後の整理作業で明らかになるでしょう。
形象埴輪は主に周濠(しゅうごう)の中から発掘されました。このうち動物をかたどったものは馬、鶏、水鳥があります。馬は顔の部分しか出土しませんでしたが、馬具の表現が無いことから鞍(くら)を持たない裸馬ではないかと思われます。鶏は雄鶏、雌鶏が1羽づつ並んだ状態で発見されました。雄鶏には大きなトサカがついており、雌鶏は雄鶏に比べると全体的に一回り小さく作られています。どちらも足が立体的に作られていて、比較的古い段階の埴輪であることが分かります。
水鳥は、整理作業中に初めて存在が確認されました。鶏形埴輪よりも大きくなることは確実ですが、具体的にどのような姿になるのかはまだ不明です。
また、武具をかたどったものは冑(かぶと)、短甲(たんこう)、草摺(くさずり)などの甲冑(かっちゅう)のほか、盾や矢を入れる靫(ゆぎ)が出土しました。しかし、これらは細かい破片になつていて、詳しいことはまだ分かっていません。
その他、蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)や家形埴輪が見つかっています。家形埴輪はやはり破片となっているので特徴や個体数などは分かりませんが、蓋形埴輪は傘の部分のほか上部の十字飾りも比較的保存状態が良く、現在までに2個体以上が確認されています。
これら形象埴輪のうち家や鶏、水鳥は祭祀儀礼に関係するものであり、武具、蓋は権威や威儀(いぎ)を示すものであると考えられています。このように埴輪がまとまって出土し、当時の様子が想像できる例は非常に珍しいといえます。
小立古墳出土の埴輪は現在まだ整理中ですが、いずれ展示して皆さんの前にご披露したいと思います。

小立古墳の発掘の写真 その2

発掘調査現場から(166回)

広報「わかざくら」 平成12年10月15日号掲載

小立(こだち)古墳の発掘 その1

平成11年11月から行っている池之内、山田地区のほ場整備事業に先立つ発掘調査で前方後円古墳が発見されました。この古墳は山田地区小字小立から発見されたため小立古墳と名付けられました。
調査地周辺は池之内古墳群(4世紀)、南山古墳群(5世紀)、戒場様古墳群、ゴダ古墳群(5~6世紀)等の古墳群のほか山田寺跡(7世紀)などの遺跡があり、また古代の道路である山田道にも面していて歴史的に重要な地域です。
また、調査前の状況は尾根に挟まれた谷間に田畑が造られているのみであり、地面には何の痕跡も見られませんでした。しかし、深さ約3メートルまで掘り下げると葺石が検出され、続いて埴輪も出土しました。出土遺物についてはまた後日の「発掘調査現場から」で説明します。
小立古墳は全長34.7メートル、前方部9.7メートルの大きさで、帆立貝に似た形をした前方後円墳です。周囲には幅6メートルの掘をもっており、中から多くの埴輪や木製品が出土しました。古墳の外面には葺石が後円部は2段、前方部は1段に葺かれ、1段目と2段目との間に円筒埴輪が並べられていました。元々は後円部は3段目もあったのでしょうが、今は削られてしまったものと思われます。しかし、写真からもわかるように当時の様子をよくとどめています。
小立古墳の発見は偶然によるものですが、今後各地で谷間の発掘調査が行われれば第2第3の「小立古墳」が発見され、古墳時代の研究は進歩していくことでしょう。今回の発掘はその先駆けであり、重要な意味を持つと言えます。

こだち古墳の発掘の写真 その1

発掘調査現場から(165回)

広報「わかざくら」 平成12年9月15日号掲載

谷遺跡第15次の調査

谷遺跡の第15次調査は平成12年7月11日から20日にかけて行われた発掘調査です。場所は大字阿部で、これまでの成果として竪穴式住居跡や玉造工房跡、遺物では無文銀銭や木簡、子持勾玉などが発見されており、当地一体は5~7世紀にかけて阿部山田道沿いに展開した一大集落と考えられています。
今回の調査地は、当初旧地形が谷筋と予想され、高まり上にある集落から捨てられるごみ廃棄場が見つかるかと推測していました。
しかし実際は土坑が4つ、柱穴が5つと密に遺構が見つかり、集落の縁辺部であったことが分かりました。
検出したこれら遺構群には、柱穴のみならず土坑の中からも俗に榛原石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩が出土する特徴が見られました。この石材は谷遺跡周辺では比較的よく出土し柱の根石に使用されるもので、産出地との交流関係の手掛かりとなる石と考えられます。
また井戸らしき土坑一つからは榛原石と一緒に、折れた長方形の砥石や祭祀に使われたと思われる須恵器の蓋と小壷がセットで出土しています。

谷遺跡第15次の調査の写真

発掘調査現場から(164回)

広報「わかざくら」 平成12年8月15日号掲載

集落の区画の痕跡(纒向遺跡)

平成12年5月に纒向遺跡の第120次調査を大字太田小字南飛塚(みなみひづか)で行いました。太田の一帯は、纒向遺跡が営まれた初期の頃の中心地であると考えられており、これまでにも旧纒向小学校跡地の調査や石塚古墳周辺の調査で多くの柱穴(ちゅうけつ)を確認し、掘立柱建物で構成された居住域であったと推測されます。
今回の調査も同様に、面積から比べて通常よりも密度の高い多数の柱穴が見つかりました。またトレンチの南側から、これらの柱穴の平面空間を区切るような特徴的な溝が見つかりました。幅が22~25センチメートル、深さが44~46センチメートルで、長方形に近い断面形をしており、堆積土中には水が流れた様な痕跡は無く土の塊で埋められているのが観察から分かっています。溝からは土器などの多数の遺物に混入して僅かな木片も出土しています。
この事から溝は、塀を立てるために掘られた布掘り溝で、これによる柱穴群と調査区外南側の遺構群との性格分けが読み取れます。区画する要因が何なのかは後の周辺の調査が進展するのを待つばかりですが、遺跡内を分割していた痕跡が確認できた事は、纒向遺跡の構造を知る上で重要な手掛かりになると思われます。

集落の区画の痕跡(纒向遺跡)の写真

発掘調査現場から(163回)

広報「わかざくら」 平成12年7月15日号掲載

箸墓古墳の発掘調査

箸墓古墳の発掘調査が4月から6月まで行われました。今回の調査地点は箸墓古墳の前方部南隅にあたるため、前方部の墳丘やコーナーなど、墳丘に関連する遺構の確認や、従前の調査において確認されている周濠や外堤関連の遺構の確認が期待されました。
調査では、現在の見掛けの墳丘裾より南へ約10メートルの地点で、前方部の一部と見られる地山整形跡を確認し、前方部が更に南へと広がる事が分かっています。
葺石や盛土などは全く残っていませんでしたが、洪水砂層内部には葺石などに由来すると考えられる多量の石材が含まれており、恐らく7世紀前半の洪水によって押し流されてしまったものと考えられます。
このことから、古墳の前方部の幅は従来考えられていたよりも約17メートル広い約147メートルとなり、周濠に関しては、前方部基底の地山整形より約10メートルの地点で周濠の外堤と見られる地山の高まりを確認しています。
平成4年に調査区の東約80メートルの地点で行われた調査でも周濠の外肩ラインが確認されており、今回のものとは幅・方向ともに一致するものです。
箸墓古墳は築造時期や墳形など、各地の前期前半の古墳を考える上で、常にその基準として扱われてきた古墳であり、近年の墳丘周辺における調査によってその墳形や築造時期に関する資料が蓄積してきた事は、今後の研究に大きな影響を与えることとなるでしょう。

発掘調査現場から(162回)

広報「わかざくら」 平成12年6月15日号掲載

昔の村の痕跡(東新堂遺跡)

大字東新堂にある東新堂遺跡は、もともと弥生時代前期の土器が出土する遺跡として知られていましたが、近年周辺の発掘調査が進展するに従い、現在の集落の原型となる平安時代の集落に関連する遺構が残っている事が解ってきました。
今回の第7次調査でも13世紀後半のピットと溝が検出されました。溝は東西方向に直線的に掘られており、深さ約60センチメートル、幅は推定4メートルと考えられます。遺物は溝の埋土中からは残りの良い土師器片や瓦器片が出土し、また底の直上からは半分の羽釜片が出土しました。溝の性格は今のところよく解りませんが、条理制水田の水路か集落の区画に関係するものと考えられます。
今まで中世の集落と現在の集落の位置が重なる部分が非常に多いため、検出される中世の遺構は少なかったのですが、今回のような調査例を重ねて行く事によって、12世紀~13世紀にかけての集落の変遷と、現代の集落になるまでのつながりを復元する資料になると思われます。

昔の村の痕跡(東新堂遺跡)の写真

発掘調査現場から(161回)

広報「わかざくら」 平成12年5月15日号掲載

吉備大臣薮遺跡の調査

大字吉備にあります大臣薮遺跡の調査が行われました。遺跡の調査は3年前から年に2カ月程度ずつ継続して行われています。
この遺跡は地元では吉備真備の邸宅跡との伝承を持っていましたが、考古学者の間では遺跡の中から建物の礎石が運び出された記録がある事や、ここから出土したとされる古瓦が伝わっている事などから長らく吉備氏の氏寺である吉備寺跡ではないかと考えられていた遺跡です。
これまでの発掘調査の結果、遺跡は寺院跡では無く周囲に幅約5メートルの濠を持つ東西50メートル、南北60メートルの方形の城館跡であることが判明し、縁辺には基底幅4メートルの土塁が巡っていた事が解っています。内部からは建物の跡や井戸などが見つかっており、井戸からは多量の土器や漆塗りの椀、包丁などが出土、当時の生活の様子を伺う事ができます。
出土土器の年代からこの城館は14世紀の中頃には廃絶したようです。当時の桜井は南北朝期の南朝と北朝の勢力圏の境界にあたり、この城館も南朝方の砦の一つとして構築され、1340年頃の「戒重の合戦」の際に南朝方の敗戦とともに廃絶したものと考えられます。
「戒重の合戦」については文献が残っており、戒重・外山・赤尾・川合・外鎌山など幾つかの城館が記録に登場していますが、吉備の名前は見当たりません。
今回の調査はこれまで文献に全く出て来なかった中世城館を確認する事ができ、南北朝期の重要な舞台でありながら実態のよく解っていない桜井の一面を知る事ができた調査でした。

吉備大臣薮遺跡の調査の写真

発掘調査現場から(160回)

広報「わかざくら」 平成12年3月15日号掲載

古墳の下から竪穴式住居(纒向遺跡調査)

昨年6月に箸墓古墳の西約200 の地点で実施した纒向遺跡第112次調査にて、トレンチとした調査区から、円筒埴輪が巡る埋没古墳と竪穴式住居、土器を多量に含む溝が発見されました。中でも竪穴式住居と溝は、ほとんどの周辺の遺構が中世の耕地開発で削られていたにも関わらず、その時代にも塚として残っていた古墳の盛土の下になっていたお陰で状態良く残っていました。ただし古墳築造時の整地で若干削られているようです。
竪穴式住居は4.9 ×4.7 のほぼ正方形でベッド状の内部施設と粘土を張った炉の跡が造られている事が解りました。しかし柱穴は掘られていないので通常の住居と上屋の造りが若干異なっていると考えられます。時期は遺構の切り合いと出土した土器片から古墳時代前期の布留0式から1式の間になり、隣接する箸墓古墳の時期が近いためその関係が注目されます。これまで住居跡は纒向遺跡内では第59次調査の1例以来確認されていませんでしたが、今回の発見でこれまで明確でなかった居住域を推定する資料が一つ増えたと言えるでしょう。

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
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