現在の位置

発掘調査報告(170回~179回)

発掘調査現場から(179回)

広報「わかざくら」 平成14年2月15日号掲載

小立(こだち)古墳の発掘 その5 

小立古墳は谷奥から大雨等により流れ出した土砂により埋没しました。今回出土した車輪はこの堆積した土砂に捨てられ、埋まっていたものです。
出土したのは、車輪全体のうちタイヤにあたる輪木が約半分とスポークにあたる輻が3本でした。また、車軸留めと思われる木製品も4分の1程度残っていました。
輪木は外側の大羽と内側の小羽の2種類があり、これを組み合わせてほぞ穴に輻を通す構造となっています。復元すると直径109.6センチメートルとなります。
さらに、大羽には大羽同士が繋がる箇所に凹部があるものと凸部があるものがあり、釘を使わずにずれないようにした工夫が見られます。また、大羽と小羽に分かれるのは車輪にかかる負荷の分散と修理・交換を容易にするためと考えられ、木の種類もアカガシという堅い木を用いることを意識しています。
以上の構造は後世の絵巻物等の車輪に見ることができますが、大きさ以外は目立った変化はなく、そういった意味ではこの時すでに車輪の形態は完成し、後の祇園祭などで見られる山車の車輪に引き継がれたのでしょう。
また、他に部品が出土しなかったため乗用か運搬用であるかは不明ですが、いずれにせよ出土例の少なさから一部の特権階級の所有物であったと思われます。
なお、車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。しかし、谷奥から流れ出た砂の上に捨てられていたため断定することは難しく、さらに慎重な土器等の出土品を多角的に検討する必要があります。
現在、冬季企画展「山の辺古道と大和政権」展で展示しています。どうぞご覧ください。

出土した車輪の写真

発掘調査現場から(178回)

広報「わかざくら」 平成14年1月15日号掲載

纒向遺跡出土の木製輪鐙(わあぶみ)

ここに紹介します木製輪鐙(あわぶみ)は平成10年度に行われた箸墓古墳後円部裾の調査で周濠の上層から出土したものです。
柾目(まさめ)に木取りしたアカガシを用いて加工されており、足を掛ける輪の部分は欠けてしまっていますが、復元では長さは23センチメートル程度になるものと思われます。
柄の上部には縦1.5センチメートル、横1センチメートルの縦長の鐙靼孔(みずおあな:鐙を吊り下げるために革紐を通す孔)があけられていますが、孔の上部には鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1センチメートル程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを証明しています。
現在までに国内における木製輪鐙の出土は宮城県仙台市で1点(5世紀代)、滋賀県長浜市で1点(5世紀末~6世紀後半)、大阪府四條畷市で2点(5世紀後半)の4点しか確認されておらず、今回の輪鐙は全国でも5例目となる非常に珍しい遺物であるうえに、時期についても、4世紀初めに遡る日本最古の鐙といえるでしょう。
これまでに発掘された資料からは当時の日本には馬が数多くいたとは考えられませんが、今回の輪鐙の出土によって一部の階層の間には馬が受け入れられ、乗馬の習俗も存在していた事が明らかになってきました。鐙を見ていると馬に乗って纒向遺跡を闊歩する人の姿が目に浮かんでくるようです。

木製輪鐙(わあぶみ)の写真

発掘調査現場から(177回)

広報「わかざくら」 平成13年11月15日号掲載

弥生時代の生活道具

桜井市の大福に所在している大福遺跡は約2千年前の弥生時代中期を中心とした集落遺跡で、橿原市の坪井とに跨がり広がっている事が確認されています。
今年の6月から9月にかけて22回目の発掘調査が行なわれ、弥生時代中期中頃から末にかけての集落の北辺の一部が確認されました。
今回検出する事ができたのは、集落の周囲を巡る幅4~6メートルの6条の環濠(かんごう)の内の最も外側の溝、建物跡と考えられる柱穴(ちゅうけつ)群、墓など多岐にわたります。また集落の跡だけに遺物の量も多く、土器以外にも石器、腐植して残りにくい有機質遺物である木製品、獣骨(じゅうこつ)が多数出土しています。中にはまだ未完成の鋤(すき)2本や製品の種類は不明なものの製作途上である砲弾状の木製品、石器の原材料となる耳成山で採取される流紋岩(りゅうもんがん)片なども出土しています。
今回のように道具の未製品が出土する遺跡はあちこちで見つかっており、日常使用されていた道具がどのような工程で作られていたか、古代の技術を知る手掛かりとなっています。

弥生時代の生活道具の写真

発掘調査現場から(176回)

広報「わかざくら」 平成13年9月15日号掲載

市の天然記念物として指定「与喜天満神社お旅所に所在する紅梅の老木2本」

桜井市文化財保護審議会は、このたび桜井市大字初瀬739番地の与喜天満神社お旅所に所在する紅梅の老木2本を、市の指定文化財として長く保存・保護していくよう桜井市教育委員会に答申しました。
同委員会はこれを受けて、市の天然記念物として指定することを決め、平成13年7月30日に公告しました。
天満神社は、平安時代の政治家菅原道真を祭神とする神社ですが、道真がこよなく愛した梅がそのシンボルとされ、神社関連地に植えられることが多い樹木です。
お旅所とは、神社のお祭りで御輿が出ますが、途中で御輿を担ぐのを休憩する場所です。初瀬のお旅所は5×10メートルぼどの狭い場所ですが、その四隅に紅梅が植えられていました。現在は2本残るだけで、北西隅のは近年植えられたものです。
紅梅は、南西のものは幹周囲205センチメートルで、高さ7.3メートルあります。北東のものは幹周囲173センチメートルで、高さ9.6メートルあります。花は八重で、北東のものは樹幹から直接花が群がって咲くという特徴が見られます。お旅所の中には文政2年の銘の入った石灯籠があり、それ以前から大木になっていたらしく、約300年の樹齢を推定しました。
この紅梅は、3月も下旬になってから満開になるため、ナタネ梅雨の季節に咲く梅ということで、地元では「泣き梅」の愛称をもって大切に保護されています。

発掘調査現場から(175回)

広報「わかざくら」 平成13年8月15日号掲載

小立古墳の発掘 その4

小立(こだち)古墳の盾形木製埴輪は、多くの木製品と共に前方部から出土しました。1点は表面が焼けていましたが紋様が残っており、もう1点は紋様が残っていませんでしたが、ほぞ穴が見られました。大きさはどちらもほぼ同じで、縦の長さが131センチメートル、横の長さは64センチメートルと56センチメートルであり、写真のように倒れた状態で出土したため本来どちらが上辺であったかは不明でしたが、焼跡の具合やほぞ穴の位置から長い方が上になるものと推測されました。
ところが、奈良県森林技術センターの酒井氏(現在奈良県庁勤務)が木製品のサンプルを採取しに来られ、意外なことがわかりました。
酒井氏は木材腐朽菌の研究者で、小立古墳の木製品にその活動の痕跡がないか調査されました。木材腐朽菌とは文字どおり木を腐らせる菌で、主に地表面に生息しています。つまり、地面に接していた面はどちらであったかは、腐朽菌の活動の痕跡を調べれば判るのです。その結果、長い方からその痕跡が検出され、短い方からは検出されませんでした。ということは、我々が上辺だと思っていた方が下辺であったということになります。
近年、自然科学の手法を考古学に取り入れる研究が活発に行なわれています。今回の調査結果もその好例と言えるでしょう。【写真は、盾形木製埴輪(右が上)】

盾形木製埴輪の写真

発掘調査現場から(174回)

広報「わかざくら」 平成13年7月15日号掲載

東新堂遺跡の調査

今回ご紹介するのは、平成13年4月から5月にかけて行われた東新堂遺跡の発掘調査の成果についてです。
東新堂遺跡は、弥生時代前期の遺物が出土する遺跡として広く知られるようになりました。また近年の調査で、縄文時代の旧流路や平安時代・中世の遺構が見つかってきており、時代を通して集落が営まれていた様子が徐々にわかってきています。 
さて、この春に調査した地点では、東新堂遺跡に関連する遺構の他に、大藤原京の道路である北五条条間小路とその両端に掘られた側溝の跡も検出されると予想されていました。しかし、いざ掘ってみると大藤原京に関するものは見つからず、それより新しい時期である平安時代の終わりから鎌倉時代の初め頃の掘立柱建物や土壙墓(どこうぼ)、柱穴と、鎌倉時代の溝などが検出されました。
このうち土壙墓、つまりお墓は、南北3.5メートル×東西1.3メートルの長方形のもので、南北に主軸をもちます。墓穴内の南端には人頭大の石が置かれ、完全な形の土器が多数埋められていました。また、土壙墓が埋まった後に掘られた溝は、中世条里制に伴う区画溝と思われます。おそらく水田の水路として利用されていたものでしょう。
小さい面積での調査でしたが、平安から鎌倉時代にかけての土地利用の変遷が明らかにされ、この時期に関する資料を蓄積できた事は、今後集落構造を検討する上で重要な手掛りになると思われます。

東新堂遺跡の写真

発掘調査現場から(173回)

広報「わかざくら」 平成13年6月15日号掲載

織田藩陣屋の造成工事 

桜井市大字芝にある織田小学校の南約100メートルの堀の北側で、茅原遺跡の第10次調査を行いました。調査期間は平成13年3月12日、調査面積は3.3×5.0メートルの16.5平方メートルになります。
今回の調査では、小さい面積ながらも織田芝村藩陣屋に関連する溝や土坑が見つかりました。それら遺構の性格まではよく分かりませんが、溝については邸宅内の建物などを区画するためか、排水用の溝になると考えられます。またそれらの遺構は、陣屋藩主邸宅の土台となる地面とは異なり、約90センチメートルの整地層上に造られています。
整地層より下の土層は、洪水層と思われる比較的細かい砂礫層になっており、湧水(ゆうすい)も確認できました。陣屋を築くにあたって、予定地周辺にあった古墳などを壊してまで整地をしたとの記録がありますが、その必要があったという事もうなづけます。
今後の調査で今回のように比較的保存状況の良い陣屋の遺構の調査が進展し、絵図や文献資料などと含めて当時の姿が復元される事が期待されます。

発掘調査現場から(172回)

広報「わかざくら」 平成13年5月15日号掲載

吉備蓮台寺の発掘

平成12年9月13日から19日にかけて、吉備の蓮台寺において発掘調査が行われました。蓮台寺は寺伝では僧行基(ぎょうき)により天平年間に創設され、吉備真備が帰依したという寺伝のある寺院です。また、境内からは飛鳥時代末から奈良時代にかけての瓦が出土したと伝えられ、今回の発掘でも当時の遺物が発見されるのではないかと予想されました。
調査は本堂の建替えに伴うもので、新たに建立される堂宇(どうう)の支障にならないようにトレンチ(調査区)を設定した結果、10平方メートルと比較的狭い面積となりました。
結果的には遺物はほとんど出土しませんでしたが、遺構としては大藤原京一条大路に伴う深さ約2メートルの道路側溝の一部を検出することができました。しかし、もう少し拡張することができればさらに詳しいデーターを得ることができたかと思うと残念です。
調査面積自体も小さく、本堂やその他の建造物の建立により残っていない可能性もあったので、検出は難しいと考えていましたが、先入観は当てにならないことを改めて思い知らされた現場でした。

吉備蓮台寺の写真

発掘調査現場から(171回)

広報「わかざくら」 平成13年4月15日号掲載

吉備池遺跡の調査

既に新聞にも掲載されましたが、吉備池遺跡の発掘調査が平成12年12月4日から平成13年1月12日にかけて行われました。
吉備池遺跡は、舒明天皇が639年に発願して建設が始まった百済大寺の可能性が高いと考えられている寺院跡ですが、今回は竪穴式住居や切通し・南北溝・柱列・掘立柱建物などを検出することができました。
これらの遺構は時期別に4期に分類することができますが、ここでは吉備池廃寺の時代の遺構について見ていくことにしましょう。   
寺に関連する遺構には切通しと南北溝、掘立柱建物があります。切通しは東西方向に切られたもので、最も高い部分では約70センチメートルの高さがありました。建物や南北溝などを構築する為に周囲を平らに造成したときの痕跡と考えています。建物は東側がすでに削られていましたが、南北3間 (6.9メートル)以上×東西2間(2.3メートル)以上の大きなもので、廃寺の金堂や塔・僧坊・回廊などに方位を揃えており、南北溝や切通しも同様です。 
南北溝は最も幅の広い所で幅3.8メートル、深さ40センチメートル程度のものですが、南に行くに従って西側の肩が乱れ、幅が狭くなっていました。
今回の調査により、吉備池廃寺北方の丘陵上には吉備池廃寺と関連を持つ、規模のしっかりとした遺構群が広く展開している事が明白となりました。吉備池廃寺北方の丘陵は今後、寺域の確定や寺院関連施設の構造を考える上で極めて重要な地点となってくることがわかりました。

吉備池遺跡の写真

発掘調査現場から(170回)

広報「わかざくら」 平成13年3月15日号掲載

大藤原京時代の建物と道路の面影

大藤原京関連遺跡の第31次調査は平成12年11月~12月に桜井市東新堂で実施した調査です。この調査地区は大藤原京内に張り巡らされた区画道路(くかくどうろ)の一つである北六条東八坊大路の推定地であり、当初はその証拠となる道路両側に掘られる側溝の検出が予想されていました。しかしながら調査の結果、今回は道路側溝を見つける事はできませんでしたが、大藤原京に関連する遺構として、京域内の建物と考えられる柱穴(ちゅうけつ)が合計9基、調査区の西端と東端から確認することができました。東側の杭列(くいれつ)群は、南北方向に伸びる東西2間南北2間以上の掘立柱建物とそれに平行する杭列と考えられ、西側の柱穴群は現在のところ建物になると考えられます。
ところでこの調査で注目されるのは、それらの東西端に位置する建物の中間地帯では大藤原京の時期の遺構は全く確認されず、後の時代の遺構ばかり検出されている事です。この範囲は条坊道路(ぼうじょうどうろ)の推定範囲ともほぼ合うため、本来は条坊道路が造られていた事を伺わせています。失われた原因は、本来現在の田んぼの高さまであった生活面が中世の耕作による撹乱(かくらん)・削平(さくへい)を受け、道路側溝が底まで無くなってしまっている事が考えられます。
桜井市内の遺跡を調査して行く中で、耕作が原因で遺跡が削られる例が多く見られますが今回もその典型例の一つと言う事ができるでしょう。

大藤原京関連遺跡の写真

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桜井市教育委員会事務局 文化財課
〒633-0074 桜井市大字芝58-2
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