現在の位置

発掘調査報告(180回~189回)

発掘調査現場から(189回)

広報「わかざくら」 平成15年1月15日号掲載

安倍寺遺跡の調査(その2)

平成14年9月9日から10月16日にかけて、安倍寺遺跡の発掘調査を行いました。前回、7世紀前半に整備された「山田道」の一部とみられる石組み溝と、バラス(小石)敷きの遺構について紹介しました。
今回は、これよりも時代の遡る古墳時代後期(6世紀)の竪穴住居跡について紹介します。
調査は、12メートル×2.5メートルという狭い範囲でしたが、5棟の竪穴住居跡が重なり合う状況を確認しました。
これは、住居が幾度も立て替えられたことを示すものです。建物を立て替える度に、周囲を整地し直したようで、60センチメートルにおよぶ分厚い整地層が観察されました。
この整地層の中には、製鉄の際に生じる鉄滓(てつさい:鉄のくず)や鞴(ふいご:送風装置)の羽口(はぐち:送風管)などの製鉄に関わる遺物が多く含まれていました。このことから、近くに鍛冶工房があったと推定され、調査地は、そうした工人達の居住域と考えられます。
竪穴住居からは、当時のカマドの跡が見つかっています(写真)。

当時のカマドの跡の写真

現状では、長さ約120cm、高さ約20cmの逆「V」字形をした壁体(へきたい)部分が残っていましたが、断面をみると、天井部が落ち込んだ状況が観察され、本来、ドーム状であったことがわかります。また、住居の壁面を切り込んで、煙を屋外へ逃がすための煙道が設けられていました。
(注釈:下の復元図は住居の壁等を省略しています)
以上、今回の調査では6世紀の竪穴住居跡と7世紀前半の「山田道」の一部分を示す遺構・遺物を確認しました。当地は、7世紀後半に「安倍寺」を建立した豪族・阿倍氏の活動の拠点となった地域です。今後、遺跡の性格を考える上で、重要な成果を得られたといえるでしょう。

当時のカマドの復元図

発掘調査現場から(188回)

広報「わかざくら」 平成14年11月15日号掲載

安倍寺遺跡の調査(その1)

安倍寺遺跡の発掘調査は、古代山田道に推定される八町道の西側において、平成14年9月9日から10月16日にかけて行われました。
安倍寺は、国史跡の飛鳥時代後半の古代寺院です。これまでの発掘調査で確認された金堂・塔・回廊の配置や、西端の大垣に関連すると思われる石垣を伴う溝の存在などから、約200メートル四方の範囲が寺域として想定されています。今回の調査地点は、その北東端付近に位置します。
調査では、竪穴式住居跡や造り付け竈、製鉄関連遺物や滑石製品など多くの成果が得られました。中でも、特筆すべきは、南北方向の石組み溝1条と、調査区の東端に広がるバラス敷き(注)です。(注…小石等を敷き詰めたもの)
石組み溝は、溝壁に15~40センチメートル大の河原石を積む構造で、石材は平らな面が溝の内側を向くように据えられています。後世の耕作によって溝の上部は削られていましたが、幅約60センチメートル、深さ約20センチメートル、石組みは最下段の1~2段が残っていました。
バラス敷きは、砂質土で整地した上に、1~20センチメートル大の石材と土器片を敷いた状態で検出されました。出土した土器の年代は、7世紀前半代が下限になるとみられ、遺構が造られたのもその時期にあたると考えられます。
これらの遺構については、「山田道の道路と西側側溝」、あるいは「安倍寺東面の大垣と雨落溝」の可能性があります。ただし、大垣とした場合には、西面の石垣を伴う溝との構造の違い、柱穴等の建物の痕跡が認められなかったこと、安倍寺の創建時期と隔りがあることなどの問題点が残ります。したがって現時点では、山田道の道路遺構の可能性が高いと考えていますが、今後、慎重な検討を重ねていきたいと思います。

安倍寺遺跡の調査の写真(その1)

発掘調査現場から(187回)

広報「わかざくら」 平成14年10月15日号掲載

三輪・松之本の遺跡

三輪・松之本遺跡の発掘調査が8月8日から26日にかけて行われました。
この遺跡は平成元年の桜井警察署の建設の時に、始めて発掘調査されました。これまでの調査で、古墳時代前期の土坑や古墳時代前期から後期までの土器を大量に含んだ自然河道、古墳時代後期の掘立柱建物・土坑などが確認されたほか、縄文時代晩期の土器が数多く出土しています。これらの縄文土器のなかには馬見塚式土器と呼ばれる伊勢湾沿岸地域で使われていた土器も含まれており、当時の広い範囲での交流がが伺えます。
市内で縄文時代晩期の遺物や遺構が確認されている遺跡には、大福・吉備池・粟殿・纒向・三輪の遺跡などがありますが、遺構に伴って出土するものは非常に少なく量も限られており、警察署周辺での調査は実態の殆ど分かっていない桜井の縄文時代を考える上で、重要な資料を提供しています。
さて、今回調査したのは警察署の西方約200メートル下流域にあたる地点です。調査前は警察署敷地で確認されたような縄文時代の遺構の発掘が期待されましたが、結果的には縄文時代晩期のものと考えられる溝が一条確認されただけでした。
この溝は幅約3メートル、深さ約1.6メートルの大きなもので、埋土の状況から洪水によって埋もれたことが分かっています。この洪水砂から、縄文時代晩期の土器片が数点のほか、多量の植物遺体が出土しました。
この植物遺体のなかにはドングリやクルミ・コブシの種子・トチの実・カヤの実など大変多くの種類が含まれていました。
現在、これらは専門家による鑑定中です。結果が出れば周辺に生えていた植物の種類から当時の気候や、周辺が森林であったか拓けた土地であったかなど、様々な情報が得られるものと思われます。≪写真:縄文時代晩期の溝の様子≫

縄文時代晩期の溝の様子

発掘調査現場から(186回)

広報「わかざくら」 平成14年9月15日号掲載

城を見守る五輪塔

昨年度に大字池之内で発掘調査を実施した、磐余遺跡群(いわれいせきぐん)第4次調査の椚木原山(くぬぎばらやま)地区において、凝灰岩(ぎょうかいがん)製の五輪塔(ごりんとう)を伴う中世木棺墓(ちゅせいもっかんぼ)を確認しました。確認した場所は、北側の平地に張り出した丘陵先端部の頂上で、盆地が一望できる景観の良い場所を選択して造られたようです。
墓は、調査を開始するまでは五輪塔も埋没していた状態であり、掘削前の地表面では全くその存在は分かりませんでした。調査が進むにつれ、径約3メートルの楕円形の墓壙(ぼこう)の中に、一部が半分削られ、しかも組合わされず崩れた状態で埋まっている五輪塔が確認されました。
また五輪塔より下位となる墓壙の埋土からは、木質(もくしつ)を残す鉄釘(てつくぎ)が約40本出土しました。その鉄釘の出土地点を面的に確認したところ、長辺約2.5メートル×短辺約1メートルの木棺が復元できる事が分かりました。副葬品については一点も検出できませんでした。なお墓壙は最終的に、横穴の様な形状で、深さは約3.6メートルまで下がることが確認されました。
木棺墓に人が葬られた時期は、墓壙から出土した土器片や楕円形の水輪(すいりん)を持つ五輪塔の形態などから13世紀後半~14世紀前半と考えられますが、これは椚木原山地区の北に隣接する第3次調査の御屋敷(おやしき)地区で確認されている城館跡(じょうかんあと)と重なります。また西側の丘陵である橿原市の戒外山(かいげやま)の山城でも南に同時期の墳墓群(ふんぼぐん)が造られるなどの例があり、類例の少ない二上山産出の凝灰岩という材質、城館や盆地が一望できる立地などから、被葬者は御屋敷地区の城館の主(ぬし)、または主に関係する人物なのかもしれません。
≪写真 左:五輪塔(前)、右:五輪塔(横)≫

五輪塔の写真

発掘調査現場から(185回)

広報「わかざくら」 平成14年8月15日号掲載

纒向遺跡で縄文時代の遺構を確認

今回は、今年5月に行った纒向遺跡の西の端、豊前での調査成果について紹介します。
纒向遺跡はご承知のとおり、古墳時代前期を中心に発展した遺跡として全国的に注目されています。主要な施設は巻之内周辺にあることがわかってきていますが、遺跡の西側の様子は調査の数が少ないこともあって、まだ知られていない部分も多く、今回の調査に注目していました。
現地を掘り下げてみたところ、平安時代の溝が見つかりましたが、残念ながら古墳時代の遺構は発見されませんでした。そこで、もう少し地層を掘り下げて調査してみると、縄文時代後期の柱穴の跡やたくさんの土器が出土したのです。
柱の穴は全部で30基近く見つかり、家の跡になる可能性もあるため現在検討している最中です。土器は縄目文様がはっきり残っているものが多く、完全な形に近いところまで復元できるものもありそうです。
予想もつかなかった縄文時代の遺構が今回発見されたことで、遺跡の調査に新たな展開が出てきました。まだ周辺に遺構が広がる可能性も残されており、今後の調査に期待が高まっています。

柱の穴の写真

発掘調査現場から(184回)

広報「わかざくら」 平成14年7月15日号掲載

箸墓古墳南側で湿地帯を確認

市内箸中(はしなか)にある箸墓(はしはか)古墳は、日本で最古の定型化した古墳として全国的にも著名な古墳時代初頭(3世紀後半)の大型前方後円墳です。現在古墳は宮内庁により倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の御陵に指定されているため、古墳内部への立ち入りや調査を行うことは禁止されています。そのため埋葬施設の状況や墳丘(ふんきゅう)の構造など不明な部分が多いのですが、近年行われた墳丘周辺の発掘調査によって、墳丘の裾(すそ)をめぐる濠(ほり)の状況が明らかにされつつあります。
今回の調査地は、墳丘の南側約100メートルに位置しています。この辺りはこれまでに確認された濠の、さらに外側をめぐる濠が想定されている範囲にあたります。
今回の調査では、そうした濠の存在を直接示すような遺構は発見されませんでしたが、植物の細片を多く含んだ泥炭(でいたん)質の粘土層が確認されました。この層が形成された時期は、出土した土器の年代から古墳時代初頭頃と考えられます。このことから箸墓古墳が造られた当初、墳丘の南側には湿地帯が広がっていたと考えることができます。
この湿地帯が濠に相当するものなのかどうかは、現状では判断することができません。今後の周辺での調査を待って検討する必要があります。今回の調査成果は、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)の全体像を考えていく上で、重要な資料になると考えられます。
【写真は掘削中の調査区(手前)と箸墓古墳前方部(後方の森)】

掘削中の調査区(手前)と箸墓古墳前方部(後方の森)

発掘調査現場から(183回)

広報「わかざくら」 平成14年6月15日号掲載

中世三輪城の調査

今回紹介するのは、昨年8月に三輪で行った発掘調査についてです。
調査地は平等寺から西へ約100メートルの三輪山から広がる丘陵上に位置しています。周辺には、文献から南北朝の動乱期に南朝方として参戦した高宮勝房(三輪西阿、戒重西阿と同一人物と思われる)の居城である三輪城が築かれていたことがわかっています。しかし、未だ調査で三輪城に関する遺構などは見つかっていませんでした。
しかし、今回の調査では東西10メートルのトレンチを開けてみたところ、堀と思われる3本の溝と柱の跡を確認しました。まず、堀は、幅3メートル、深さ1メートルを測る底が平坦なもので、三輪山の尾根に直行して平行に掘られています。埋土からは14世紀代(南北朝時代)の土器が出土しており、三輪城に関する堀と考えてまず間違いないでしょう。また、柱穴は、溝2本で区切られた幅3メートルの平坦地で見つかりました。これは、他の中世城郭の調査事例を参考に、堀で囲まれた平坦地の上に作られた柵の跡と考えられます。
以上、今回初めて中世三輪城の堀、柵が見つかりました。ご承知のとおり、堀、柵は、城全体を取巻く防護施設であり、この堀の内側になる平等寺周辺の小高いところに城の主要施設が築かれていた可能性が出てきました。

中世三輪城の堀、柵

発掘調査現場から(182回)

広報「わかざくら」 平成14年5月15日号掲載

城島遺跡の調査

26回目となる城島(しきしま)遺跡の発掘調査を、城島小学校の南側隣接地で行いました。
今までに周辺では、飛鳥時代の大型掘立柱建物群や洪水砂に覆われた水田跡などが見つかっていますが、今回の調査では、それよりさらに約600年さかのぼる弥生時代後期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)を5基検出する事ができました。この墓に伴う埋葬施設は見つかりませんでしたが、周囲を巡る溝がよく残っていました。
しかも幅1・5~2メートルと広く、深さも60~90センチメートルあるので、当時の墓としては、溝の底から頂上部までの高低差が大きかった部類に入ると思われます。しかし、遺物については銅鏃(どうぞく:銅製の矢尻)が1点出土した以外は、お供えに使用されたと考えられる土器が4~5個体分出土しただけで、遺構の規模からすると量は少ないものでした。
城島遺跡では、今まで弥生時代に属する遺構の検出例は少なかったのですが、今回の方形周溝墓と今後の調査の進展から確認される可能性のある居住域などの結果を通して、さらに弥生時代の城島村の姿が解明されていくことが期待されます。

城島遺跡の写真

発掘調査現場から(181回)

広報「わかざくら」 平成14年4月15日号掲載

大福遺跡出土銅鐸

埋蔵文化財センターに展示している銅鐸は、昭和60年の大福小学校改築に伴う調査で、校庭の東北角より出土した袈裟襷紋銅鐸(けさだすきもんどうたく)と云われるものです。
またその位置が、弥生時代後期に造られた方形周溝墓の埋葬部に通じる陸橋に近接した周濠の底部だったことから埋納期と埋葬の関係がわかる銅鐸として注目を集めました。
銅鐸の形は均整のとれた姿ですが、細部にわたって観察して見ると、鋳型のズレ、鋳型よりはみ出したバリの切り離し痕(あと)や、凸線に青銅が充分に行き渡っていなかったり、また鋳型のひび割れ痕や歪み・線の引き直し痕等が認められるので、この鋳型(いがた)は、石ではなく土で造られたものと考えられます。
土の鋳型だとすれば田原本町の唐古・鍵遺跡~銅鐸鋳型の外枠が出土していますが、これが大福銅鐸に合う大きさであることから、唐古・鍵遺跡で鋳造された銅鐸と考えれば、同じ寺川水系の中心的な集落として密接な関係があったことが窺えます。

袈裟襷紋銅鐸(けさだすきもんどうたく)の写真

発掘調査現場から(180回)

広報「わかざくら」 平成14年3月15日号掲載

山田寺跡の発掘調査

山田寺跡の第12次調査が2月に行われました。山田寺は641年に右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の発願によって造寺が始まった寺院です。途中、謀反の疑いを掛けられた石川麻呂の自害による中断がありましたが、石川麻呂の冤罪が晴れると造寺が再開され、44年後の685年に完成しています。
一時は官寺に準ずる扱いを受けていたようですが、寺勢の衰退とともに規模も縮小し、現在では江戸時代に建てられた観音堂が講堂跡にあるだけで、塔・金堂などの基壇がかつての姿を偲ばせるのみとなっています。
寺跡は奈良国立文化財研究所によって11次にわたる調査が行われほぼその全容が明らかにされていますが、今回の調査地は推定されている寺域よりも更に北の一段低い場所にあたるため、当初は寺に関連する遺構の検出は想定されていませんでした。
調査を開始すると当初の予想とは異なり、山田寺と同時期の整地土や、雨落溝(あまおちみぞ)と考えられる幅約35センチメートルの溝が検出されたため、地主さんのご好意で雨落溝に対応する建物等を確認するために調査区の拡張を行ったところ、雨落溝より約1・2メートル南側で深さ60センチメートル、南北約2メートル×東西約1・4メートル以上の規模を持った非常に大きな柱穴を検出することができました。
検出された柱穴は位置や規模から考えて、寺の北側を区画する北面大垣の柱穴とするよりは僧坊や雑坊などの施設に伴うものと推定されることから、寺域がさらに拡大するものと思われます。
わずか3日間、調査面積7平方メートルほどの本当に小さな調査でしたが寺の構造を考える上で大きな成果を挙げることができ、地道な調査の重要性を再認識させられた調査となりました。
【写真は、調査地の雨落溝の様子】

調査地の雨落溝の様子の写真

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