現在の位置

発掘調査報告(190回~199回)

発掘調査現場から(199回)

広報「わかざくら」 平成15年12月15日号掲載

上之宮遺跡の調査(2)

桜井市街の南東部、県立桜井商業高校の東側にある「上之宮庭園遺跡公園」には、平成2年に発見された園池遺構が復元されています。これは6世紀末から7世紀初頭の時期に造営された豪族居館に伴う施設であり、馬蹄形にめぐる石溝の中央に方形の石組みをもつ構造で、北東方向に全長50メートル以上の排水用の石溝が付設されていることが確認されています。
今回紹介する上之宮遺跡第16次調査の調査地は、この公園から北東へ約60メートルの地点に位置し、排水溝の延長部分の検出が期待されました。調査は平成15年の3月に実施し、南北24メートル、幅5メートル、面積120平方メートルの調査区を設定しました。
調査の結果、調査区の南東側に広がる石敷遺構を検出しました。この石敷遺構は、軟質な粘土層に覆われており、流水のない池のような状態であったことが推定されます。構造は、西側斜面に20センチメートル大の平滑な石材を用い、平坦な底面にはやや小振りな玉砂利を敷き詰め、また、高低差の大きい北側部分には、円形に復元される石垣を設けています。築造時期は、整地層から出土した土器の年代観から、7世紀前半~中頃の時期と考えられ、先述の園池遺構よりも新しいものであることが判明しました。
さらに、下層の深掘調査を行ったところ、厚さ80センチメートル以上におよぶ暗灰色の粘土層があり、石敷遺構の前段階にも池状の落ち込みが存在したことが明らかになりました。園池遺構からの排水は、この落ち込みに流れ込んでいたものと考えられます。
このほか、地形的に一段高くなる調査区の北西側から北端部分では、十数基の柱穴と石組溝が検出され、上之宮遺跡の西側における遺構群の広がりについても新たな知見を得ることができました。
(写真は、石敷遺構(北から)撮影)

石敷遺構(北から)撮影の写真

発掘調査現場から(198回)

広報「わかざくら」 平成15年11月15日号掲載

上之宮遺跡の調査(1)

今回は、平成15年3月に実施した上之宮遺跡第15次調査の概要について紹介します。
上之宮遺跡は、桜井市街の南東部を流れる寺川西岸の丘陵上に立地しており、現在の桜井商業高校の東側一帯に広がっています。
昭和61年以降、14回の発掘調査が行われ、古墳時代から奈良時代にかけての遺構が確認されています。特に6世紀末から7世紀初頭の時期には、大型掘立柱建物を中心に、石組みの園池を擁する大邸宅が存在したことが明らかになり、聖徳太子が幼少・青年期を過ごした「上宮」の候補地の一つとして注目される遺跡です。平成4年に市史跡に指定され、「上之宮庭園遺跡公園」として整備されています。

 

今回の調査地は、その公園から北東へ約90メートルの地点に位置します。
調査では、東西5メートル、南北22メートル、面積110平方メートルの調査区を設定しました。写真は、遺構の検出状況で、円形または四角形に白線で囲われているのが柱を立てる際に掘られた穴の痕跡です。柱穴は全部で170基を数え、このほか、溝4条、落ち込み3基など、6世紀前半から7世紀中頃の遺構が検出されました。
これらの柱穴のなかには、底に平滑な大石を据えたものや、長辺100センチメートル・短辺60センチメートルの長方形の掘り形をもつものがあり、それぞれ南北3間×東西2間(7.0メートル×3.5メートル)、南北3間以上×東西2間(9.6メートル以上×4.2メートル)の2棟の掘立柱建物を構成しています。そのほかの柱穴についても、ほぼ南南西~北北東の軸に沿って並ぶ傾向にあり、相当数の構造物が立て並び、さらに、建て替えられていた様子がうかがえます。
今回検出した遺構については、これまでに把握されてきた上之宮遺跡の変遷のなかで、どのように位置づけられるかが今後の重要な課題です。先述の大邸宅の全体像を理解する上でも、重要な成果であったといえます。(写真:上之宮遺跡の柱穴群)

上之宮遺跡の柱穴群の写真

発掘調査現場から(197回)

広報「わかざくら」 平成15年10月15日号掲載

三輪遺跡のミニチュア羽釜

三輪遺跡第20次調査は、三輪小学校の校舎建築に先立ち、今年の8月に発掘調査を行いました。三輪遺跡は天理教敷島大教会を中心とした約500メートル四方、三輪から金屋一帯にあたると考えられています。これまで縄文時代から中世にかけての遺物が出土しており、近年の調査では南北朝時代の三輪城の掘割(ほりわり)も一部確認されています。

 

今回の調査地は、約1メートル程掘り下げると砂や礫(れき)の層になり、平等寺川もしくは初瀬川の洪水を何度も受けたと思われ、それに伴う土砂が厚く堆積しています。しかしながら、かろうじて調査地の北西隅に、一定期間陸地化して生活していた痕跡(遺構)を確認できました。その中で東西方向の溝(写真右上)の中に多くの土器がありました。完全に近い形に残っているもので約20点、破片を合わせると100点以上ありました。それらから、時期は14世紀前後(鎌倉時代末)と考えられます。

三輪遺跡の写真

土器は土師器(はじき)皿、瓦器(がき)椀、羽釜(はがま)などが主なものでしたが、そのほかに、青磁(せいじ)などの輸入陶磁器、鉄滓(てっさい)やふいごの羽口(はぐち)など鍛冶(かじ)に関連する遺物などもみつかりました。また、羽釜の形をした小型の土器(写真右)も珍しいものといえるでしょう。本来、羽釜はお米などを炊くときに使った道具ですが、口径69センチメートルで、器高33センチメートルと非常に小さく、実際に使ったとは思えません。お供え物の道具として儀式のような時に使われたことが可能性の一つとして考えられますが、その用途ははっきりしていません。しかしながら、これらの出土した遺物は、三輪城やその周辺にいた有力土豪達に関連するものといえるでしょう。

ミニチュア羽釜の写真

発掘調査現場から(196回)

広報「わかざくら」 平成15年9月15日号掲載

纒向遺跡の特殊な土坑

市内北部に位置する纒向遺跡は、弥生時代終末期から古墳時代後期にかけての大規模な集落遺跡として知られています。このうち大字太田周辺は、纒向遺跡のほぼ中心に位置しており、以前から居住域の存在が想定されていました。
平成15年2月に太田の集落内で実施した纒向遺跡第134次調査では、居住域の存在を示す遺構は確認されませんでしたが、特殊な構造を持った古墳時代前期の土坑1基が検出されました。
検出された土坑は60センチメートル×100センチメートルの長方形の平面形態を持ち、深さは現状で約90センチメートルです。この土坑の底には直径5~10センチメートル程度の礫(れき)が厚さ30センチメートルにわたって敷き詰められ、その上で土器が検出されました。土器は大半が5センチメートル以下の小片であることから、破片が投げ入れられている可能性があります。出土した土器から布留(ふる)1式期(古墳時代前期)頃に掘られたものと考えられます。
古墳時代前期の土器が多量に含まれる土坑は、纒向遺跡でもこれまでに多数見つかっていますが、今回の例のように底に礫を敷くものは珍しい形態ということができます。そのためこの土坑の用途を推定するのは難しいのですが、湧水が著しい点や朱の精製(せいせい)を行なう石臼の破片が出土していることなどを考えあわせると、湧水に関連した祭祀(さいし)的な性格を持つものであった可能性があります。纒向遺跡ではこれまでにも、導水施設(どうすいしせつ)など水に関連した遺構が確認されていますが、今回確認された土坑も、そうしたもののひとつかもしれません。
(写真、土坑内の土器出土状況)

土坑内の土器出土状況の写真

発掘調査現場から(195回)

広報「わかざくら」 平成15年7月15日号掲載

丘陵に立ち並ぶ建物群

磐余遺跡(いわれいせき)群第5次調査は、山田・池之内地区での圃場(ほじょう)整備事業に先立つ発掘調査として、平成15年1月から3月にかけて行われました。
今年度の調査は、大字池之内に所在する南久保山(みなみくぼやま)と呼ばれる丘陵が対象となりました。南北方向に長い南久保山丘陵は、頂上部全体が人為的に造られたと思われる広い平坦面であったため、何らかの遺構が検出される可能性が高いと考えられていました。
このことから調査を平坦面を中心に行った結果、丘陵中央部分から、南北に長軸を持つ掘立柱建物跡となる柱穴群が確認されました。いずれも完全な1棟分の建物となる並びは確認できませんでしたが、柱穴の大きさと深さから分けると少なくとも2棟の建物があったと考えられます。
その内の1棟は、縦約1メートル×横約90センチメートル×深さ約60センチメートル~80センチメートルのほぼ正方形の柱穴で構成される桁行六間(たけゆきろっけん)×梁行二間(はりゆきにけん)以上の並びであり、もう1棟は1辺約1.2メートルを測る正方形の柱穴で、2間づつのみが並んで検出されました。これらの柱穴以外にも平坦面西側端で1辺約1.5メートルの柱穴が六間分検出されましたが、直線的に並び曲がる部分がないので、建物ではなく杭列である可能性も考えられます。
建物の時期は、柱穴から出土した土器片から7世紀中頃と考えられます。14年度の調査でも西隣に位置する椚原山(くぬぎはらやま)丘陵上から7世紀前半~中頃の掘立柱建物跡が検出されていることや、調査地から戒外川(かいげがわ)沿いの南西約800メートルに位置する橿原市興善寺跡でも7世紀代の掘立柱建物跡が検出されていることなどから、調査地の西を流れる戒外川を中心とした丘陵上には、これら以外にも掘立柱建物が造られ、周辺を見下ろすように建てられていたと思われます。
(写真、北から見た掘立柱建物跡)

北から見た掘立柱建物跡の写真

発掘調査現場から(194回)

広報「わかざくら」 平成15年6月15日号掲載

赤尾熊ヶ谷古墳群の調査

赤尾熊ヶ谷古墳群では平成14年9月から12月にかけて発掘調査が行われ、4基の古墳が発見されました。
ここに紹介する鏡は4世紀前半に築造された2号墳で出土した2面の鏡のうち、棺おけの蓋の上に置かれていた内行花文鏡(ないこうかもんきょう)です。この内行花文鏡には、内向きの連弧文(れんこもん)12単位、6葉の鈕座(ちょうざ)、櫛歯文帯などの文様が刻まれていました。内行花文鏡は中国の漢代を中心に製作され日本に伝わった鏡ですが、中国鏡は連弧文8単位、4葉の鈕座を原則的な文様構成としています。
この原則からすると変則的なものですので、この鏡は日本でつくられた鏡(仿製鏡:ぼうせいきょう)であると考えられます。仿製内行花文鏡の文様構成については、製作初期では中国鏡を忠実に模倣してつくられますが、その後変則的な弧数のものがつくられつつ中国鏡の諸要素が欠落していき、古墳時代前期中葉以降、一般的に多く流布する小型の6弧鏡に落ち着くと考えられています。
この観点から、この鏡は日本での鏡の量産化が始まる前段階の過渡的な姿を示す製品であると推定され、仿製鏡製作の変遷を考えるうえで重要な資料になるものと考えられます。

仿製鏡(ぼうせいきょう)

発掘調査現場から(193回)

広報「わかざくら」 平成15年5月15日号掲載

安倍寺遺跡第13次調査

桜井市安倍木材団地1丁目には、古代寺院・安倍寺が建立され、飛鳥時代には、七堂伽藍(がらん)が並び立っていました。その周囲には、寺院を建立した古代豪族・阿倍氏の邸宅や、支配下にあった人々の集落が作られていました。
今回、安倍木材団地2丁目で、店舗建設の為に発掘調査を行いましたが、飛鳥時代以前の人々の生活道具が多く出土し、当時のにぎわいぶりがよく想像できました。その中には、桜井では作ることのできない「塩」作り用の土器が出土し、注目されました。
それは、高さは10センチメートル・直径4~5センチメートルの、薄手で表面にたくさんの凹凸をつけた小型のもので、いずれも火を受けて表面がもろくなっています。海岸地帯で塩水を入れて焼いて塩を作ったとされています。

 

そんな塩作りの土器が、何故海のない桜井の遺跡からたくさん出てくるのでしょうか?塩作りの土器が多く出てくるのは飛鳥京近辺・藤原宮や京、脇本遺跡や上之宮遺跡などの当時の宮や京・豪族居館内からです。それは、貴族や豪族たちの邸宅で、調味料としてだけではなく、儀式や祭祀にも盛んに使われていたと考えられます。塩は、サラサラの状態ではなく、塩作り用の土器にこびりついた状態で運ばれたらしく、内陸部の桜井の遺跡からもたくさんみつかるのです。
これからのことからも、阿倍氏の本拠地であるこの地から、塩作りの土器がたくさん出てきても不思議ではありません。それだけ、阿部氏は力の強い豪族であったと言えるのです。その他にも、以前の調査で、玉作りやガラス作り、銅や鉄製品をも作っていたことがわかっています。安倍寺が作られる少し前に、このあたりに住んでいた阿倍氏がどんな力を持っていたかが想像できた調査でした。

安倍寺遺跡の写真

塩作り用の土器の画像

発掘調査現場から(192回)

広報「わかざくら」 平成15年4月15日号掲載

谷遺跡第17次の調査

谷遺跡の調査は今回で17回目を数えます。これまでに周辺で行われた調査の内、第3次ではガラス玉を造るための鋳型(いがた)、第14次では鉄滓(てっさい)・フイゴの羽口(はぐち)など鍛治(かじ)に関連する遺物などが出土しています。
今回の第17次調査は、幅2メートル南北に長く32メートルにわたり掘削(くっさく)しましたが、その全面で整地層が確認されました。
整地層は厚さが約60~80センチメートルあり、大きく3層に分けることができます。それぞれの整地層の中には須恵器(すえき)や土師器(はじき)などの遺物が多量に含まれていました。
最も新しい遺物の時期は、最上層が6世紀後半、残り2層が6世紀中頃となっています。注目されるのは、点数が少ないながらも上2層の中から良い状態で残っている鉄滓・フイゴの羽口片が出土している事です。
今回の場所のすぐ東側約10メートルの地点で行われた第14次調査では、同様に整地層の中から鍛治関連遺物が出土しています。この事から、調査区の付近に鍛治工房が存在したか、あるいは存在していたが新たな施設を造るために取り壊され、整地されてしまったものと考えられます。
いずれにせよこれらの遺物は、谷の地に古墳時代後期~飛鳥時代にかけての当時最先端の工房があった事を伺わせています。

谷遺跡の写真

発掘調査現場から(191回)

広報「わかざくら」 平成15年3月15日号掲載

桜井公園遺跡群の調査(2)

平成14年7月から大字谷の桜井公園内で実施した発掘調査では、古墳時代前期後半(4世紀後半頃)の時期が考えられる双築(なみつき)古墳の存在が明らかになりました。双築古墳の墳丘と埋葬施設については前回触れていますので、今回はその墳丘の周辺で見つかった古墳時代後期前半(6世紀前半頃)の埋葬施設について紹介することにします。
双築古墳の北東側にある平坦面において、竪穴式(たてあなしき)の石室が3基確認されました。これらは双築古墳の墳丘裾(すそ)につくられており、墳丘をとりまくように配置されています。石室は直径30センチメートル前後の石材を積み上げて構築され、その規模は1.4メートル~3.1メートルを測ります。
石室内からは銀製の耳環(じかん)や須恵器のほか、木棺の組合せに使用された鉄釘が見つかりました。これらの遺物から、古墳時代後期前半(6世紀前半頃)につくられたものと考えられます。
この3基の竪穴式石室はその配置から、双築古墳を意識してつくられた可能性が高いと言えるでしょう。このように古墳の墳丘裾に埋葬施設をつくる例は珍しくないのですが、それらの大半は墳丘上の埋葬とほぼ同時期につくられており、そこには墳丘上に埋葬された人物の近親者や臣下の人々が葬られたと考えられています。しかし、双築古墳では墳丘上での埋葬から1世紀以上も後に墳丘裾の埋葬施設がつくられており、そうした人々が埋葬されている可能性は極めて低いと言えます。あるいは墳丘上に埋葬された人物の子孫たちが、先祖を敬う気持ちを込めて古墳の周囲に墓をつくったのかもしれません。
双築古墳周辺の竪穴式石室の配置は、古墳時代の埋葬習俗を考える上で興味深い資料であると同時に、我々に多くの想像をかきたててくれます。(写真、発掘された竪穴式石室)

発掘された竪穴式石室の写真

発掘調査現場から(190回)

広報「わかざくら」 平成15年2月15日号掲載

桜井公園遺跡群の調査(1)

大字谷にある桜井公園は、市街地のすぐ南側に位置しながらも多くの自然を残す公園として、地元の人々に親しまれています。公園内にはわが国の演劇の発祥地とされる土舞台があるほか、中世の城跡や古墳の存在が知られており、当地が古来より重要な位置にあったことがうかがい知れます。平成14年7月から桜井公園内で行われた調査でも多くの成果を得ることができました。今回はその中から双築(なみつき)古墳について紹介します。
双築古墳は桜井公園の北端にあるこも池のすぐ東側の、小高い尾根の上に位置しています。今回の調査では埋葬施設のほか、墳丘の周囲をめぐる周溝の一部が確認されました。
墳丘の形態は、測量調査の結果から円墳である可能性が高いと考えられます。周溝状遺構を基準に復元される墳丘規模は、直径約30メートル、高さ約5メートルです。墳丘に伴う葺石(ふきいし)は確認されませんでしたが、埴輪の破片が数十点見つかっています。
埋葬施設は墳頂のほぼ中心において検出されました。長さ7メートルの大きな墓壙(ぼこう:棺をおさめるための穴)の中に粘土槨(ねんどかく)を設ける形態です。粘土槨は棺を粘土で覆う形態の埋葬施設で、当時の社会の中で比較的階層の高い人物の墓に使用されます。棺は刳抜式(くりぬきしき)の木棺で、長さは約4.5メートルを測り、内側には朱が塗られていました。
木棺内では副葬品が検出されました。棺の北側の盗掘跡からは玉類が出土し、棺内の南側では鉄剣や工具類、装飾品類などの副葬品が埋葬当時の位置で検出されました。
双築古墳が築造されたのは古墳時代前期後半頃(4世紀後半)と考えられます。桜井市域では古墳時代の前期前半(3世紀後半~4世紀前半)に大きな古墳が複数つくられますが、前期後半の大型古墳の存在は知られていません。このような時期に30メートルという円墳としては比較的大きな墳丘と粘土槨をそなえている双築古墳は、当時の桜井周辺における首長の墓であったと考えられます。
双築古墳は桜井周辺の古墳時代を考える上で重要な資料であると言えるでしょう。
(写真:双築古墳埋葬施設(中央の細いくぼみが木簡部分)

双築古墳埋葬施設の写真

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