現在の位置

発掘調査報告(200回~209回)

発掘調査現場から(209回)

広報「わかざくら」 平成16年10月15日号掲載

纒向遺跡南東部の調査(1)

市内北部に位置する纒向遺跡では、これまでに約140次以上にわたる発掘調査が実施されてきました。
中でも遺跡の西部にあたる纒向小学校周辺や、北東部の大字巻野内周辺などで行なわれた調査では大きな成果が得られており、これらの地域が纒向遺跡の中でも重要な位置を占めていたことがわかっています。
これに対して遺跡の南東部一帯は調査件数が少なく、その状況はよくわかっていませんでした。この纒向遺跡南東部において、平成15年度には4件の調査を実施することができ、成果が得られています。今回は4件のうち最も東側で実施された第136次調査について紹介します。

 

第136次調査地は、第204回で紹介した平塚古墳の北東約100メートルに位置しており、西側に眺望が開ける扇状地上に立地しています。調査では目立った遺構(いこう)は検出されませんでしたが、古墳時代前期から中世にかけての洪水堆積(こうずいたいせき)を確認することができました。
注目されるのは、これらの洪水堆積の中に、古墳時代前期の土器片が大量に含まれていた点です。これにより調査地の周辺や上流側にも、当時多くの人々が暮らしていたと推定することができます。
付近は纒向遺跡のほぼ全域を見わたすことができる位置であり、遺跡内でも重要な位置であったかもしれません。

第136次調査の成果は、これまで不明な部分が多かった纒向遺跡南東部の状況を明らかにする手がかりであるとともに、纒向遺跡の全体像を考える上でも重要なものであると言うことができます。
(写真は、纒向遺跡南東部の調査区(手前)と渋谷向山古墳(後方の森))

纒向遺跡南東部の調査区の写真

発掘調査現場から(208回)

広報「わかざくら」 平成16年9月15日号掲載

赤尾崩谷古墳群の調査 その3

今回は赤尾崩谷古墳群の出土品の中から垂飾付耳飾り(すいしょくつきみみかざり)を取り上げて紹介ます。
この耳飾りも前回ご紹介した琥珀(こはく)の首飾り同様、1号墳(5世紀末)の埋葬施設から出土しました。首飾りの出土地点より頭側にあたる位置で一対出土しており、耳元に装着していたものと考えられます。耳飾りは耳との装着部にあたる金環(きんかん)と、逆さ向きのしずく形をした金銅製(こんどうせい)の飾板、そしてこの二つを繋ぐ鎖(くさり)からなり、長さは約10センチメートルです。耳につけるとゆらゆらと揺れる構造になっており、とても綺麗だったことでしょう。
この耳飾りは、もともと朝鮮半島から数多く渡ってきた渡来人の手によって日本にもたらされました。渡来系集団と深く結びついたとても珍しい遺物、奈良県内でもまだ数点しか見つかっていません。このことから1号墳に葬られた人物は渡来系の人物である可能性が高いと考えています。

耳飾りの出土状況の写真

(耳飾りの出土状況)

垂飾付耳飾りの展示状況の写真

(垂飾付耳飾りの展示状況)

発掘調査現場から(207回)

広報「わかざくら」 平成16年8月15日号掲載

赤尾崩谷古墳群の調査 その2

今回は赤尾崩谷古墳群の発掘調査で出土した遺物のひとつ、琥珀(こはく)の首飾りについてご紹介したいと思います。
この首飾りは1号墳の埋葬施設で見つかりました。葬られた人の胸元とみられる位置で出土していることから、身体に装着していたことがうかがわれます。首飾りは勾玉(まがたま)1点と棗玉(なつめだま)(棗の実の形に似た俵形の玉)54点を連ねたもので、玉の材質はすべて琥珀です。
勾玉は今風に言うとペンダントトップであり飾りの中央に配置されています。首まわりを連ねていた棗玉の配列にも特徴があり、首の後ろから勾玉のある中央に向かって玉の大きさが段々大きくなる傾向があります。この技法は現在にも通ずる美的センスのひとつと言えるでしょう。

 

琥珀とは、数千万年~数億年前に地上に茂っていた樹木の樹脂が土砂などに埋もれ化石化したもので、いわゆる「樹脂の化石」です。日本では岩手県の久慈や千葉県の銚子などが代表的な産地として知られていますが、分析により産地を特定することも出来ます。今回の琥珀も現在分析しているところですので、結果については後日ご紹介できることと思います。

 

いずれにしても琥珀は奈良から遥かに遠い場所でしか採れないものですので、遠隔地との物流を考える上で重要な遺物であると言えます。また希少価値も高いものですので、身につけることのできた被葬者の権力の大きさがうかがわれます。
(写真、琥珀(こはく)の首飾り)

琥珀(こはく)の首飾りの写真

平成15年度発掘調査速報展 「壁画を超える実物の装飾品の美」

広報「わかざくら」 平成16年8月1日号掲載

埋蔵文化財センター夏季企画展

夏季企画展の展示の中から、赤尾崩谷(くずれたに)古墳群の1~3号墳(5世紀後半)から発見された埋葬品について紹介します。

 

赤尾崩谷古墳群の今回の発掘では、その埋葬品の珍しさが注目を集めました。
その中でも1号墳は装飾品を身に付けた状態で埋葬されていたため、当時の服飾を知るうえでも貴重な発見でした。(右図参照)肩を覆っていた布には3000個を超える3色のビーズが縫い付けられていたと見られています。また、銀製、琥珀(こはく)製、ガラス製の3つの首飾りをつけていました。
特に琥珀製の首飾りは、留め具部の玉は小さく、中央部に近づくに従って大きく作られていて、全国的に見ても珍しいものです。
ガラス製の首飾りも部分装飾として水晶、翡翠(ひすい)、めのう、ガラスの勾玉(まがたま)が使われているなど細工が細やかです。2、3号墳からも数千というガラス小玉が見つかっています。

 

赤尾崩谷古墳群の1~3号墳はこれら埋葬品の豪華さに比べ、古墳自体が小さいこと、木棺にかすがい(鉄製の留め金)を使っていることや一緒に発見された土器などから、当時の権力者の墓ではなく、朝鮮半島南部から来た渡来系技術者集団の長の墓ではないかと見られています。
市内では桜井公園2号墳がほぼ同じ時代の渡来人の墓といわれています。

 

埋葬品の華やかな色彩は、そのまま当時の国際都市桜井に花開いた文化の華やかさを表しています。

1号墳出土品の写真

群青、朱赤、淡緑…(1号墳出土品)

1号墳の埋葬時の状態の想像図

1号墳の埋葬時の状態(想像図)

関連ページ

平成16年度速報展

発掘調査現場から(206回)

広報「わかざくら」 平成16年7月15日号掲載

赤尾崩谷古墳群の調査

赤尾崩谷(あかおくずれだに)古墳群は、桜井市域中央部に位置する鳥見山北麓の標高約120メートルの尾根上に形成された古墳群で、今回の調査で5基の古墳が確認されました。

 

1号墳(5世紀末)は、尾根先端に位置する一辺16メートルの方墳です。墳丘高は2.3メートル。中心主体の埋葬施設3は割竹形木棺を直接埋めたもので、棺内からはガラス・琥珀(こはく)・銀製などの玉類が装着状態を含め総数3617点以上出土したほか、鏡2面・鉄製品・須恵器などが出土しました。

 

2号墳(5世紀末)は直径12メートルの円墳で、墳丘には円筒埴輪が巡らされていました。埋葬施設は東西方向に割竹形木棺を埋めたものでした。棺内からは銀製の耳環と、赤・群青・薄緑・水色のガラス小玉・滑石臼玉(かっせきうすだま)など総数4625点以上の玉類が出土しました。玉類は出土状況から棺内全体に撒かれていたことがわかりました。

 

3号墳(5世紀末)は一辺11メートル、墳丘高は80センチメートルの方墳です。割竹形木棺を直接埋めた南北主軸の埋葬施設を検出し、棺内からは翡翠勾玉(ひすいまがたま)をはじめ群青・薄緑・水色のガラス玉など総数2832点以上を数える玉類と刀子(とうす)・馬具などが出土しました。

 

4号墳(6世紀初頭)は一辺16メートルの方墳です。墳頂中央は大きく撹乱されていましたが、鉄製の鉾(ほこ)・石突(いしづき)・刀子を副葬した埋葬施設が辛うじて残っていました。

 

5号墳(6世紀初頭)は一辺13メートル、墳丘高2メートルの方墳です。墳丘中央で割竹形木棺を直に埋めた南北軸の埋葬施設を確認しました。埋葬施設からはガラス小玉・碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)などの玉類に加え鉄剣・土器類が確認されました。

 

この赤尾崩谷古墳群は、副葬品の特徴から朝鮮半島から渡来した集団の有力者を葬った古墳群であることがわかりました。
(写真は、1号墳の埋葬施設)

1号墳の埋葬施設の写真

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平成16年度速報展

発掘調査現場から(205回)

広報「わかざくら」 平成16年6月15日号掲載

井戸祭祀!?

大藤原京関連遺跡第43次調査は、寺川北岸の東西約1.1キロメートル(大福から東新堂)にわたる農道工事に先立って行われました。
調査区は工事区域の中で、大藤原京条坊道路推定地にあたる場所に合計7ヶ所設けました。その中で橿原市の市境に近い第1調査区で藤原京期の井戸と道路跡(東五坊坊間路の東西側溝)が見つかりました。
その中で井戸は直径約1.6メートル、深さは検出面から1メートルの規模で、藤原京期の宅地の中にあったと思われます。井戸の埋土から、斎串(いぐし)4本、ひょうたんの実、札状や棒状木製品、土師器甕(はじきかめ)などが出土しました。
斎串は(細長い薄板の両端を削って尖らし、上端に切り込みを数箇所入れたもの)聖域を区切るもの、神への供物、依代(よりしろ)や形代(かたしろ)などに使われた祭具と考えられています。
井戸には古来より神が宿ると考えられており、湧き水の安定や水の清めなどの水の功用と深くかかわっていると考えられてきました。おそらく、井戸構築時、使用中、廃棄時において様々な祭祀が行われたのでしょう。今回出土したものもそのような井神に対して行われた祭祀を考えるうえで貴重な資料です。

井戸の中の遺物の写真

井戸の中の遺物

斎串 (いぐし)の画像

斎串(いぐし)

発掘調査現場から(204回)

広報「わかざくら」 平成16年5月15日号掲載

平塚古墳(ひらつかこふん)南側の調査

市内北部の大字箸中周辺には、大小様々な規模の古墳が数多く点在しており、それらは箸中古墳群と呼ばれる古墳群を形成しています。現在も付近を歩くと、水田地帯に残された墳丘を目にすることができます。その大半は発掘調査が行なわれておらず、築造時期や正確な墳丘形態が知られている古墳はわずかに過ぎません。箸中古墳群の東端に位置する平塚古墳もまた、墳形や時期が不明な古墳の一つでした。
纒向遺跡第135次調査は、この平塚古墳の南側において平成15年8月に実施されました。残念ながら平塚古墳に関連する遺構は確認されませんでしたが、墳丘上に並べられていたと考えられる埴輪の破片が見つかりました。破片は計30点程度で、円筒埴輪(えんとうはにわ)のほかに朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)が含まれていました。これらの埴輪の製作時期から、平塚古墳は古墳時代後期(6世紀頃)に築造されたことが明らかになりました。
また埴輪が見つかった層の下では、弥生土器を含んだ溝が検出されました。溝は幅2メートル程度のもので、出土遺物から弥生時代後期後半頃(2世紀頃)に掘削された溝であると考えられます。纒向遺跡は弥生時代終末期から古墳時代前期前半(3~4世紀前半頃)にかけて栄えた集落遺跡ですので、今回検出された溝は、その直前の時期のものということになります。纒向遺跡の形成過程を考える上で、重要な資料を得ることができたと言えるでしょう。
今回の調査面積は、わずか20平方メートルという小規模なものでしたが、そこから得られた成果は予想を上回る大きなものでした。
(写真は、弥生土器の出土状況)

弥生土器の出土状況の写真

発掘調査現場から(203回)

広報「わかざくら」 平成16年4月15日号掲載

池之内に残る池・沼の跡

桜井市大字山田・池之内では圃場整備事業(ほじょうせいびじぎょう)を実施するにあたり、平成11年から事前に磐余遺跡(いわれいせき)群と呼称し発掘調査を行ってきました。第6次を数える今回の現地調査は、平成15年8月から平成16年3月までの期間、対象範囲内に所在する丘陵の頂上部や谷間の水田部分に合計17ケ所の試掘トレンチを設定し実施しました。
そのうちの第5トレンチとした谷間の水田部分の調査で、水の流れが滞った状況で堆積する植物の腐った土と植物遺体を多量に含んでいる腐植層(ふしょくそう)と呼ばれる地層が検出されました。これは磐余遺跡群第3次調査の前田地区で検出した地層と同質のものであり、この事から丘陵である御屋敷(おやしき)・榊(さかき)地区を囲むように、池または沼があったと考えられます。
(写真は、中央の溝の断面に見える腐植層)

中央の溝の断面に見える腐植層の写真

日本最古の歴史書である・古事記・日本書紀には、磐余と呼ばれた地域には天皇が船を浮かべ遊覧した池である磐余池(いわれいけ)があったとの記述があります。
池の所在地については、京都教育大学和田萃(わだあつむ)教授の桜井市池之内から橿原市池尻周辺にあったとする説と国際日本文化研究センター千田稔(せんだみのる)教授の大字吉備から阿部にかけてあったとする説がありますが、池の存続期間を6世紀~7世紀頃と考えた場合、和田説の地域に含まれている御屋敷・榊地区周辺にあった池または沼は、腐植層から出土した土器の年代から時期に矛盾はないと考えられます。
この事で池之内一帯を磐余池と断定するには根拠がまだまだ乏しいですが、候補地である池之内での調査でそれを伺わせる痕跡が残っていた事は、今後の磐余池の所在地を検討する上で手掛かりになると考えられます。

平成15年度第5トレンチ図

発掘調査現場から(202回)

広報「わかざくら」 平成16年3月15日号掲載

大福遺跡第23次調査

今回の調査は大福小学校の南側約100メートルの地点で行われました。調査前の段階では、平成6年度に実施した第11次調査で確認された大藤原京の北三条東六坊大路の西側道路側溝と対になる溝が検出される事が想定されていましたが、実際に調査をした結果、トレンチの西端から幅約1メートル、長さ4メートル、深さ30センチメートルの溝を検出し、その中から出土した土器と第11次調査の道路側溝との位置関係から、それが北二条東六坊大路の東側道路側溝である事が判明ました。
側溝の中からは遺物が少量ですが出土しました。溝に溜まっていた土が粘土質シルト~シルト質粘土で、水分を多く含む有機物を残しやすい土だった事もあり、須恵器や土師器などの土器だけでなく、一部が炭化している木片や桃の種の破片なども出土しました。

 

今回の調査までで桜井市内で確認された大藤原京の道路側溝は合計9例目となります。京域がどこまで完成したか不明な点が多い大藤原京ですが、検出されている範囲から考えると少なくとも沖積低地部分、現在の国道165号線から北側についての造成はかなり進んでいた可能性が高いと思われます。

 

第23次調査ではこのほか、弥生時代の土坑も検出されました。ただしこれまで大福小学校付近で確認されている弥生時代後期のものではなく中期に属するもので、周辺では調査地の西側に位置する中津道団地の建設に際して行われた調査などで検出されています。
この事から後期の遺跡範囲の西~南西に中期の遺跡範囲が拡がっていると推測されますが、遺構の数がごくわずかで、それが集落の証拠と言えるかどうかは今後の資料の増加を待たねばなりません。
(写真は、道路側溝を南から撮影)

道路側溝を南から撮影した写真

発掘調査現場から(201回)

広報「わかざくら」 平成16年2月15日号掲載

芝遺跡第32調査(2)

前回は平成15年5月~7月に実施された芝遺跡第32次調査の成果のうち、弥生時代後期の遺構について紹介しました。今回はその約20センチメートル下層で確認された弥生時代中期の遺構について注目したいと思います。
弥生時代中期の遺構としては、V字形に屈曲する溝が検出されました。溝の幅は1.7~2.7メートル、深さは60~80センチメートルで、溝の中からは弥生時代中期後半頃の土器が出土しました。調査範囲が狭いため溝の全容は明らかにされませんでしたが、その形状から方形周溝墓の一部である可能性が考えられます。方形周溝墓は弥生時代から古墳時代にかけて見られる墓の形態で、周囲に方形の溝をめぐらせてその内側に埋葬施設を設けるものです。本例では埋葬施設は検出されませんでしたが、屈曲する形態や溝の規模などから、方形周溝墓のコーナー部分にあたる可能性が高いと言えます。
芝遺跡では、今回の調査地の北側隣接地で行なわれた第3次調査や第20次調査などで、弥生時代中期中頃~後半の方形周溝墓が確認されています。このことから付近一帯は当時の墓域であったと考えられます。今回の調査で得られた成果は、芝遺跡の集落像を理解する上で貴重な資料であると言うことができるでしょう。
(写真は、検出された方形周溝墓の一部)

検出された方形周溝墓の一部の写真

発掘調査現場から(200回)

広報「わかざくら」 平成16年1月15日号掲載

芝遺跡の調査(1)

市内北西部に広がる芝遺跡は、奈良盆地を代表する弥生時代の集落遺跡の一つとして知られています。これまでの調査では、弥生時代中期の方形周溝墓や、掘立柱建物を描いた絵画土器、弥生時代後期の住居址など、当時の集落の状況を示す重要な遺構・遺物が数多く確認されています。これらの遺構が集中する遺跡の中央部において平成15年5月~7月に実施した第32次調査では、弥生時代中期と後期の遺構が確認されました。今回はそのうち弥生時代後期のものについて紹介します。
弥生時代後期の主な遺構としては、土器を大量に含む溝が確認されています。溝は東西方向に走る幅7メートルの大規模なものでした。この溝の最上層において、完形に近い土器が数十点検出されました。出土状況から、本来溝の肩の上に置き並べられていた土器が流れ落ちたものと推定されます。これらの土器は弥生時代後期後半に属するもので、溝の掘削時期もそれに近いものと考えられます。
今回の調査では溝の一部が確認されたに過ぎず、その性格を明らかにすることはできませんでした。しかし土器の出土状況から考えると、何か特別な意味を持つ溝であることは間違いありません。その意味を明らかにすることは、当時の集落像を解明する上できわめて重要であると言えるでしょう。今後の周辺の調査や類例の増加を待って検討する必要があります。
(写真は、溝内の土器出土状況)

溝内の土器出土状況の写真

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