現在の位置

発掘調査報告(210回~219回)

発掘調査現場から(219回)

広報「わかざくら」 平成17年8月号掲載

和同開珎と上ツ道

古代の奈良盆地には、上・中・下ツ道などの直線道路が走っていたことが知られています。これらは自然地形に左右されずにまっすぐに造られており、当時の測量技術の正確さをうかがい知ることができます。
そうした直線道路の一つである上ツ道(かみつみち)は、桜井市から天理市・奈良市域へと続いていたと考えられ、地割(ちわり)などからおおよその位置が推定されています。特に大字芝から北側ではその名残が上街道(かみかいどう)として残っており、現在も生活道路として使用されています。
箸墓古墳の北側で実施した纒向遺跡第142次調査では、上街道に隣接する位置において東西方向の調査区を設け、上ツ道に関連する遺構の確認をおこないました。その結果、現在の道路のすぐ西側において、厚さ40センチメートル程度の盛土(もりど)状の遺構が検出されました。
この盛土状遺構は固く締まっており、土器片を多く含んでいました。幅のせまい調査区で検出されたため全体像はわかりませんが、南北方向に続く状況が推定されます。盛土の上の砂層からは7~8世紀頃の土器とともに、2点の和同開珎(わどうかいちん(ほう))が出土しました。これらの遺物などから、盛土状遺構は7世紀前後に築かれたものと考えられます。
上ツ道がいつ頃造られたのかはよくわかっていませんが、少なくとも壬申(じんしん)の乱(672年)の頃には存在していたことが知られています。今回確認された盛土状遺構は、位置や時期などから、上ツ道である可能性を考える必要があります。見つかった2点の和同開珎は、かつて上ツ道を往来した古代人の持ち物なのかもしれません。

纒向遺跡の写真

発掘調査現場から(218回)

広報「わかざくら」 平成17年7月号掲載

安倍寺遺跡15次調査

安倍寺遺跡第15次調査は安倍木材団地内で実施した発掘調査です。
申請地内に4か所のトレンチを設定して掘削を行ったところ、いずれのトレンチからもこれまでに周辺で行われた第9・13次調査でも確認された黒色の土である礫(れき)混じり暗灰褐~黒褐色シルトが検出されました。
この土層は約40~60センチメートルと比較的厚く、土師器(はじき)・須恵器(すえき)を多量に混入している遺物包含(ほうがん)層ですが、その上・下面からは古墳時代前期~藤原京期にかけての溝・柱穴・土坑(どこう)・ピットがいくつも検出されました。
中には北東方向に傾いた軸を持つ古墳時代前期の建物跡になると考えられるピット群もあり、前述の第9次調査からも同時代でかつ同じ軸の傾きを持つ竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)や溝が検出されている事から、同一の集落内に建てられていた建物になると推測されます。

安倍木材団地内の写真

また最も東側の第1トレンチの遺物包含層下層からは弥生時代後期の遺物が出土する自然流路跡が確認されました。
これは北に隣接する吉備池・谷遺跡で検出されている自然流路跡に繋(つな)がる可能性が高く、現在とは大きく異なる弥生時代後期の景観を復元する手掛かりになると考えられます。

東側の第1トレンチの遺物包含層下層の写真

発掘調査現場から(217回)

広報「わかざくら」 平成17年6月号掲載

平安時代の木棺墓(珠城山古墳群第4次調査)

平成17年の2月から3月にかけて、桜井市穴師の珠城山古墳群(6世紀代に築造された前方後円墳3基からなる古墳群)で、中心に位置する2号墳の墳丘範囲の確認調査を行いました。
その中で後円部の北側にもうけた調査区から、珠城山古墳群の時期から約400年後の平安時代(10世紀)のお墓がみつかりました。
古墳のそばに奈良や平安時代のお墓がみつかることはしばしばみられ(例:NO214・忍阪遺跡第4次調査)、古墳を先祖の墓と考えてその近くに葬ったことも考えられます。

出土された鉄釘の写真

また、お墓からは鉄釘が約20本以上みつかり、木棺に入れて埋葬されたことがわかりました。木棺の中からは、椀や壷、皿などの土器が副葬されていました。その中でも、黒色土器の椀の上に別の椀を逆さにして蓋をするような形で(下写真)、西端と東端に1組ずつ副葬されているのが特徴的なものとしてあげられます。

 

椀の中に入っていた土を念入りに精査しましたが、何もみつけられなかったので、時間がたつと腐って無くなってしまう食物(お米?)などが入っていたと思われます。このような変わった土器の使い方は葬送儀礼特有の風習でしょう。
また、西側の椀の下には刀子があり、現在でも棺の中に剃刀などの刃物を入れる風習に通ずるものもみられました。

葬送儀礼は昔から伝わってきた伝統的なものと、時代によって変化するものがあり、今回の成果は当時の人々の「死」に対する考え方をみていく上で貴重な発見です。

黒色土器の椀の写真

発掘調査現場から(216回)

広報「わかざくら」 平成17年5月号掲載

纒向(まきむく)遺跡の祭祀土坑(さいしどこう)(2)

前回紹介しました纒向遺跡第140次調査の祭祀土坑からは、多くの遺物が検出されています。土器は破片を含めると100個体以上に及んでおり、このほか盾(たて)などの木製品、籠(かご)などが確認されています。また埋土中からは桃やヒョウタンの種がたくさん見つかりました。
土器は古墳時代初頭(3世紀初頭頃)のもので、甕(かめ)や壷・高坏・鉢などの器種が確認されました。中には底部や胴部に意図的に孔が開けられているものや、ミニチュア品など、祭祀的な意味が考えられる個体が数点含まれていました。

 

木製品としては盾や農具である犂(すき)が確認されていますが、それ以外に用途不明のものが数点検出されています。このほか加工がみとめられない自然木も出土しました。これらの木製品や自然木の中には部分的に炭化しているものが見られ、祭祀のある段階で火を使用していることが考えられます。
籠は、完形のもの2点を含む計3点が見つかりました。大きさは直径20~25センチメートル程度で、丁寧に編みこまれている様子が観察されます。材質については今後分析を行なって明らかにする予定です。

 

纒向遺跡では、100年以上にわたって祭祀土坑がつくられており、確認された土坑の総数は数十基に及んでいます。祭祀の形態については、水と火に関連することや、食物に関わるものであることが明らかにされつつあります。今回確認された土坑はこれらの中でも古い段階に掘られたものであり、土坑祭祀の変遷を考えていく上での起点となる重要な資料と言えるでしょう。

纒向遺跡の出土品の写真

発掘調査現場から(215回)

広報「わかざくら」 平成17年4月号掲載

纒向(まきむく)遺跡の祭祀土坑(さいしどこう)(1)

市内北部のJR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、邪馬台国(やまたいこく)の有力な候補地として全国的にも知られる古墳時代前期の集落遺跡です。
これまでに140次を超える調査が実施され、他の集落遺跡では見られないような特徴的な点が明らかになってきました。
大字辻(つじ)の旧河川周辺で多く見つかっている「祭祀土坑」と呼ばれる穴も、そうした特徴の一つと言えるでしょう。
纒向遺跡の祭祀土坑には、湧水が激しい点や、多くの土器や木製品が出土することなどの共通点が見られます。最近では、平成16年9月~11月に行なわれた第140次調査で祭祀土坑が確認されています。

 

第140次調査は、遺跡のほぼ中央にあたる大字太田で実施されました。調査地は以前から祭祀土坑が多く確認されている辻地区のすぐ南側に位置しています。
確認された祭祀土坑の平面形態は円形で、規模は直径2.5メートル、深さは1.3メートルです。纒向遺跡で大規模集落が形成されはじめた時期(3世紀初頭頃)のものと考えられます。これまでに見つかっている祭祀土坑の中でも比較的大きく、古い時期に位置付けることができます。
また、埋土の中からは様々な遺物が検出されました。これらの遺物は当時の祭祀の形態を考える上で重要な資料であると言えるでしょう。この祭祀土坑の遺物については次回紹介したいと思います。

纒向遺跡の出土品の写真

発掘調査現場から(214回)

広報「わかざくら」 平成17年3月15日号掲載

忍阪遺跡第4次調査

今回は昨年の7月から8月に実施した忍阪遺跡第4次調査で発見された平安時代の木棺墓について紹介します。
調査は朝倉台の南東にある外鎌山から西にのびる尾根の南斜面で行われました。外鎌山一体には今まで古墳時代や奈良時代のお墓がみつかっており、朝倉台造成時にも多くの古墳が調査され、今回の調査地周辺でも古墳が残っています。

 

そのような場所で平安時代の木棺墓が発見されました。木棺の木の部分はもう残っていませんでしたが、木材を組み合わせる時に使用した釘や土の痕跡などから、木棺の規模は縦約170センチメートル、横約45センチメートルであることがわかりました。高さは、上半分が後世に削り取られていたため不明です。

 

木棺の痕跡のあった土を掘り下げてみると、八角形の形をした青銅製の八稜鏡(はちりょうきょう)が出土しました。八稜鏡の表面には、わずかですが絹のような布や鈕(ちゅう…鏡背の中心にあるつまみ)の部分に通されていたと思われる紐(ひも)が張り付いていました。鈕に紐を通した状態で、布に包まれて棺の中に納められていたのでしょう。
その鏡を取り上げてみると、横櫛(くし)と木の皮(鏡や櫛などを入れていたもの?)がみつかり、また、鏡の付近には人間の歯もみつかりました。これらは鏡の銅成分の影響で腐ってなくなってしまうのを免れたものと思われます。

 

そのほかには徳利の形をしたような壷、土師器皿2点がみつかりました。これらの中でとくに鏡や櫛、壷などは化粧道具として使われていたものと思われます。棺の中に葬られた女性の愛用品だったものでしょうか?当時の埋葬習俗や女性の生活の一端をうかがえる貴重な成果でした。

忍阪遺跡の出土品の写真

横櫛と木の皮

(横櫛と木の皮)

発掘調査現場から(213回)

広報「わかざくら」 平成17年2月15日号掲載

大福遺跡第24次調査

市内西部に位置する大福遺跡は、弥生時代を中心とする時期の集落遺跡として知られており、昭和49年から現在までに24次にわたる発掘調査が実施されてきました。
このうち昭和60年に大福小学校の北東隅で実施された第3次調査では、弥生時代終末期~古墳時代前期に埋納(まいのう)されたと考えられる銅鐸(どうたく)が見つかり、注目を集めました。当時はまだ銅鐸が埋納された状態で検出されることは珍しく、この発見は大きな話題を呼びました。

 

第24次調査は、この銅鐸出土地点のすぐ北側において平成16年5月に実施しました。ここでは顕著な遺構は確認されませんでしたが、調査地の北側に向かって下がる低湿地が確認され、そこから弥生時代後期後半の土器が集中して検出されました。土器の総量は50個体以上に及んでおり、大半が完形に近い状態に復元できるものでした。
現状でこれらの土器の意味を考えることは難しいのですが、ミニチュア土器が若干含まれることから、集落の縁辺部で土器を用いた祭祀が行なわれた可能性が考えられます。今後遺物を詳細に検討してその意味を考えたいと思います。

 

今回の調査地は銅鐸の埋納地点から数十メートルしか離れておらず、また出土した土器の時期も銅鐸と近いものと考えられます。今回確認された大量の土器は、銅鐸を祭祀(さいし)に使用した人々のものなのかもしれません。(写真は、弥生土器の検出状況)

弥生土器の検出状況の写真

発掘調査現場から(212回)

広報「わかざくら」 平成17年1月15日号掲載

今年はとり年です(『古代人たちが見た鳥』展)

平成17年は、とり年にあたります。桜井市内の遺跡調査からも、とりがいくつも発見されています。

 

弥生時代中期には、土器の胴体に絵が描かれていたり、後期には「鳥竿」(ちょうかん)という、棒の先に取り付けて村の入口に立てたとみられる木製のとりも出ています。
お隣の田原本町唐古・鍵遺跡からは、ニワトリ形の土製品の首から上が出ています。これにはトサカやクチバシ・肉髯(にくぜん)(赤くて下に垂れたニワトリ独特のもの)が表現されていると共に、目の後に丸く盛り上がった所が見られます。これは、耳をあらわし、耳羽(みみはね)を忠実に表現しています。

 

古墳時代に入ると、纒向石塚古墳の周濠の中から、板の上に貼られたと見られる赤い色を塗った鳥が二羽出土しました。頭にトサカ状の表現がされています。
これとは別に、纒向遺跡坂田地区から大型のニワトリの埴輪が出土しました。このニワトリは、木の上に止まった状況で、脚はしっかりと枝を把んだ表現がなされていました。石上神宮の鎮守の森で見られる、夜木の上の枝に止まったニワトリと同じです。同時に、顔には大きな耳がつけられていました。夜、木の上に止まって寝ていても、朝一番鳥が鳴くと負けずに二番鳥・三番鳥の鳴き声をあげようとしたことでしょう。
韓国では、ニワトリが早朝以外の時に鳴くと、それは近くに悪霊が寄って来ていることを知らせてくれているのだとの信仰があり、不意の折に鳴き声を聞くと男達は武器を持って身構え、女や子どもたちは安全な所に避難したそうです。
いずれにしても、ニワトリには時を告げる役目と同時に悪霊がしのび寄ってくるのを聞きわける能力を持った動物と考えられたものでした。

 

ニワトリと同じ時期に、セットで立てられた埴輪に冠(かんむり)形埴輪があります。ニワトリが朝一番に鳴くのは夜と朝を行来できる動物、つまり死と生の世界を往来するからと考えられ、前大王の霊を次の大王にとりつぎする動物と考えられました。つまり、霊的な継承です。
これに対し、目で見てわかり易いのは前大王の権威のシンボルである王冠を、次に即位する新大王がかぶる行為です。これは物質式な継承です。
この二つの埴輪が共に出土したのが纒向遺跡です。ニワトリや冠が埴輪化されたのは、大王の継承儀礼に伴う儀式が埴輪化されたからでしょう。 

 

その後、古墳時代中~後期に入ると、ニワトリの埴輪は次第に省略化されると共に、雄だけでなく雌のニワトリも作られます。また、忠実に作られた脚足も、退化してゆき最後には線刻表現で終わってしまいます。ニワトリを作る埴輪工人達が、本来のニワトリの意味を見失っていったからでしょう。
とり年にちなんで市立埋蔵文化財センターでは、『古代人たちが見た鳥』展(~平成17年4月3日(日曜日))を開催しています。どうか一度、古代のとりたちを見に来てください。
(写真は、纒向遺跡坂田地区出土鶏形埴輪)

纒向遺跡坂田地区出土鶏形埴輪の画像

発掘調査現場から(211回)

広報「わかざくら」 平成16年12月15日号掲載

増加する鍛冶工房の存在を示す遺物(谷遺跡)

桜井市の谷~阿部~安倍木材団地にまたがり所在する谷遺跡は、主に古墳時代中期~飛鳥時代に営まれた集落遺跡です。
昭和57年の病院増築工事に伴う発掘調査を始めとして、これまでに実施した18次を数える調査からは、掘立柱(ほったてばしら)建物・竪穴式(たてあなしき)住居・井戸など当時一般的に見られる遺構や須恵器(すえき)・土師器(はじき)などの遺物の他に、玉造(たまつくり)や鍛冶(かじ)・ガラス造に関連した特殊な遺物も出土しています。

 

今回行った第19次調査では、古墳時代中期~飛鳥時代の遺物が多量に出土。第6・14・17次調査地と隣り合わせの場所であったこともあり、同時代の遺物を多量に含んだ川の跡(写真右上)が検出されました。
川に溜まった砂礫(されき)に混じって出土した遺物のほとんどは土器ですが、いずれも割れ口が鋭く摩滅も少ないという特徴が確認できるので、遠くから流されてきたものでは無いと判断できます。
このことと隣接する調査地の成果を踏まえて考えると、周りの集落で不要になった土器などを古墳時代中~後期には調査地の位置を流れていた川に捨てていた、もしくは遺構・遺物を包含(ほうがん)した周辺の土を飛鳥時代以降に川が浸食して取り込み、軽く細かな土だけを流して遺物が残ったと推測されます。

谷遺跡の写真

ところで砂礫中からは土器だけでなく、第14・17次調査でも出土した6世紀後半と思われる鍛冶操業を示す遺物であるフイゴの羽口(はぐち)や鉄滓(てっさい)(下の写真)も出土しました。
残念ながらこれまでのところ、炉などの遺構は発見されていませんが、調査地周辺で多量に鍛冶関連遺物が出土する状況から見ても、鍛冶工房が谷遺跡の南端一帯に存在していたと思われます。
また谷遺跡の南に接している安倍寺遺跡からも多くの同様な遺物が出土しているので、これらが一連になるのか時期差を伴う別のものなのかなどの検討課題は残りますが、古墳時代に阿倍丘陵西側の段丘上に連綿と広範囲にわたって、鍛冶をはじめとする様々な工房群が拡がっていたと考えられます。

羽口(はぐち)や鉄滓(てっさい)の写真

発掘調査現場から(210回)

広報「わかざくら」 平成16年11月15日号掲載

纒向遺跡南東部の調査(2)

纒向遺跡は、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての大規模な集落遺跡として、全国的にも注目されています。
昨年までに130次を超える発掘調査が実施され、重要な遺物や遺構が数多く確認されてきましたが、不思議なことに竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)の検出例はほとんどありませんでした。
大字箸中で行なわれた第138次調査では、纒向遺跡では稀少な竪穴住居跡が確認されました。

 

第138次調査は、前回紹介しました第136次調査地の東側約50メートルの地点で、平成16年3月に実施しました。
確認された竪穴住居は一辺約5メートルの正方形に近い形状で、床面では柱穴が検出されました。中央付近は方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の溝により残存しませんが、本来は炉(ろ)があったと推定されます。住居の時期については出土した土器から、纒向遺跡の衰退期にあたる古墳時代前期前半頃と考えることができます。
この竪穴住居は、纒向遺跡内における居住域の変遷を考える上で貴重な資料であると言うことができます。
これまでに纒向遺跡で確認された竪穴住居は、確実なものとして大字箸中のビハクビ古墳墳丘下で確認されたものが一例あるのみで、他に大字太田で竪穴住居の可能性がある遺構が検出されているに過ぎません。このように竪穴住居が少ない状況は、纒向遺跡の重要な特徴の一つと考えられます。
(写真は、検出された竪穴住居)

検出された竪穴住居の写真

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