現在の位置

発掘調査報告(220回~229回)

発掘調査現場から(229回)

広報「わかざくら」 平成19年7月掲載

東田大塚(ひがいだおおつか)古墳前方部の調査

東田大塚古墳は、桜井市北部に位置する纒向(まきむく)遺跡の西側部分に位置しています。
これまでに3次にわたる発掘調査が実施され、古墳時代初頭(3世紀後半)の築造であることや、墳丘北側に幅20メートル前後の周濠(しゅうごう)状遺構が存在することが明らかになっています。
しかし墳丘の形態については前方部の存在も含めて不確定な部分が多く、現状の地形や地割を根拠として、全長100メートル前後の前方後円墳であると推定されてきました。

 

平成19年1月から3月に行なわれた発掘調査では、東田大塚古墳の前方部を遺構として初めて確認することができました。これにより東田大塚古墳が前方後円墳であることが確実となりました。また墳丘南側にも周濠状遺構が巡ることが明らかとなり、東田大塚古墳の全体像を復元する上で重要な手掛りを得ることができました。

 

纒向遺跡には出現期の前方後円墳が複数存在しています。これらの古墳の全体像を明らかにすることは、日本列島における前方後円墳の出現を考える上できわめて重要な意義があります。今回の調査は、そうした大きな課題に向けての一歩として位置付けられるものと言えるでしょう。
《写真》 東田大塚古墳前方部(奥)と周濠状遺構(中央)

東田大塚古墳前方部と周濠状遺構の写真

発掘調査現場から(228回)

広報「わかざくら」 平成19年5月掲載

城島遺跡の発掘調査

三輪山西南麓の、初瀬川と粟原川に挟まれた扇状地上に広がる城島遺跡一帯は、奈良・大阪と伊勢地域を結ぶ交通の要衝として、古くから重要な位置にありました。
周辺にはかつて多くの木材工場や貯木場が見られましたが、近年はこれらの跡地に住宅や店舗が建ち並び、付近の景観は様変わりしつつあります。
城島遺跡ではこうした開発などに伴って40次を超える発掘調査が行われ、古墳時代から飛鳥時代(3~7世紀)を中心とする時期の遺構・遺物が多数見つかっています。

 

昨年の10月に遺跡の西側で実施した第42次調査においても、7世紀代の遺構が複数確認されました。そのうちの一つである掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)は、一辺80センチメートル前後の大きな方形柱穴を持っており、建物自体も大きなものであった可能性が考えられます。
城島遺跡付近には、欽明(きんめい)天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)の伝承地が存在しています。今回確認された遺構はこれより新しい時期のものですが、こうした伝承や発掘調査成果は、この一帯が6~7世紀代において重要な地域であったことを物語っています。

城島遺跡の写真

発掘調査現場から(227回)

広報「わかざくら」 平成19年3月掲載

大福遺跡第25次発掘調査

平成18年の6~12月にかけて、都市計画道路大福出垣内線の工事に先立って発掘調査を行いました。
大福遺跡は大福小学校から出土した銅鐸によって弥生時代の遺跡として著名ですが、古墳時代前期(4世紀)や藤原京(8世紀)の時代の遺構・遺物なども大変多い遺跡です。今回調査地周辺でも、これまで古墳時代前期の遺構や遺物が発見されています。
今回みつかった旧河道からは、4世紀を中心とする遺物が多く出土しました。旧河道は幅約8メートル、深さ約2.5メートルで、やや蛇行しながら、北西方向にむかって流れていたものだと思われます。寺川に流れる支流の一つだったのでしょう。

大福遺跡の写真

河道の中からは甕(かめ)や壷などの土器、木製品が多く出土しました。その中でも特に注目すべきものは、表面に直弧文(ちょっこもん)と呼ばれる文様が刻んである幅5センチメートル程度の板状の木製品です。
直弧文とは帯状の弧線や直線の複雑な組合せからなる一種の幾何学的な文様で、その祖形は、岡山県楯築神社の弧帯石や桜井市の纒向遺跡から出土している弧文板などに求められ、古墳時代に特有な文様です。
直弧文は、刀の装飾具、埴輪、貝製腕輪、石室の壁画などに描かれたものが多く、当時の政治的権威の象徴的な文様として考えられています。
旧河道から出土した多量の遺物は、近くに集落があったことを示しており、これまで弥生時代ばかりに注目が集まっていた大福遺跡ですが、これからは古墳時代の大福遺跡も注目していかなければなりません。

直弧文(ちょっこもん)が刻んである板状の木製品の画像

発掘調査現場から(226回)

広報「わかざくら」 平成19年1月掲載

粟殿遺跡第7次調査の成果

桜井市内には数多くの遺跡が確認されていますが、縄文時代の遺跡の占める割合は今のところ比較的低いと言えます。その中にあって今回調査を行った粟殿遺跡は遺構・遺物ともに確認されている数少ない例であり、平成6年から行われている6回の調査では主に縄文時代後~晩期の土坑・溝・流路などが確認されています。

 

今回の第7次調査では南東~北西方向に掘られた溝を検出しました(写真の中央)。
掘削を進めていくと、北西側は幅約1メートル前後で直線的に走り、断面はV字形となっており、南東側は幅が約2.5~3.5メートルと一定でなく、緩やかで浅い底面には砂で削られたためか部分的に深い凹凸があることがわかりました。また両者を繋ぐ部分は径約3メートルの不整円形となる深さ約90センチメートルの淵(ふち)のような場所になり、その東側には木杭(きぐい)が5本以上流れに対し直角に打たれていたため、堰(せき)があったと推測されます。これらの遺構には全体に砂が堆積していましたが、その上層からは縄文時代後~晩期の土器片が多く出土しました。
しかし木杭付近の最下層の砂を掘り上げた際に、中期末~後期初頭の深鉢(ふかばち)の同一個体の破片が全体の4割程度分まとまって出土したことから、遺構の掘削はこの時期までさかのぼると考えられます。

 

今回確認できた縄文時代の遺構はこれまで周辺でも確認されていない時期のものとなりましたが、その他は炭・焼土が堆積する径約1.5メートルの落ち込み一つだけで、柱穴などの遺構は確認されませんでした。遺跡の中心となる範囲をうかがうには従来と同様に今後の調査による資料の増加を待たなければなりませんが、人々の居住の場が付近に存在するのは間違いないと言えるでしょう。

掘られた溝の写真

発掘調査現場から(225回)

広報「わかざくら」 平成18年11月掲載

纒向石塚古墳第9次調査「壊された古墳を発見」

発掘調査によって、これまで存在が知られていなかった古墳が発見されることがあります。昨年度に実施した纒向石塚古墳第9次調査でも、削平され土中に埋もれていた古墳を新たに確認し、小字名から石塚東古墳と命名しました。
この古墳は平安時代以降に耕作地を広げるために破壊されたようで、墳丘は全く残っておらず、痕跡は墳丘周囲にめぐっていた濠だけでした。
しかし、この状態でもたくさんの情報が残されています。まず濠の形状から墳丘が帆立貝形であったことが判明しました。また濠からは遺物が大量に出土しており、なかでも円筒埴輪は濠の外側に樹立されていたものが何らかの原因で短期間のうちに転落した様子がよくわかる状態でした。人頭大の石がたくさん出土しているところを見ると、本来は葺石も施されていたのでしょう。これらの埴輪や土器の様相から古墳の築造時期を5世紀後半(古墳時代中期後半)と考えています。

 

纒向遺跡は古墳時代前期に繁栄したことで知られていますが、それ以降の様子は詳しくわかっていません。中期後半から後期の古墳についても、今回調査地である太田や東田周辺では埋没古墳7基が近年の調査によって確認されているのみでした。これらはいずれも方墳や円墳で葺石をもたないので、今回発見された古墳は他より優位に位置づけることが可能かもしれません。古墳時代後半期の纒向を知る手がかりが増えた、興味深い調査だったと言えます。

壊された古墳の写真

発掘調査現場から(224回)

広報「わかざくら」 平成18年9月掲載

纒向遺跡出土の土製支脚(どせいしきゃく)

「土製支脚」とは煮沸(しゃふつ)用具の一種で、煮炊きを行う際に、火にかけた土器を支える役割を持つものです。古墳時代前期には近畿や山陰、四国、九州など、西日本一帯で使用されたことがわかっており、その当時の煮沸形態を知ることができます。

 

大字東田において今年の2月~3月に実施された纒向遺跡第145次調査では、古墳時代初頭頃の土坑(どこう)から土製支脚が6個体以上出土しました。確認された土製支脚は高さ14.4~16.0センチメートル程度のもので、烏帽子(えぼし)形を呈しています。表面は熱を受けているため赤みを帯びており、実際に使用されたものと推定されます。

 

纒向遺跡ではこれまでにも10点以上の土製支脚が出土していますが、一つの土坑から残存状態の良い土製支脚が複数見つかった例はなく、今回確認された土坑は非常に珍しい事例であると言えます。また土製支脚が出土した土坑は、湧水が著しいことから本来井戸のような機能を持つものであったと考えられますが、多量の土器や炭化した木片が出土することから、火を使用する祭祀との関連も指摘されています。今回確認された土製支脚は、そうした土坑の性格を考える上で興味深い資料と言うことができるでしょう。

 

なお纒向遺跡第145次調査出土の土製支脚は、10月1日まで大字芝の市立埋蔵文化財センターで展示しています。

土製支脚(どせいしきゃく)の写真

発掘調査現場から(223回)

広報「わかざくら」 平成18年5月掲載

ヤナイタ古墳群の調査

桜井市の北部に位置する纒向(まきむく)遺跡では、これまで30年以上にわたって140回以上の発掘調査が実施されてきました。
これらの調査では古墳時代前期(3~4世紀)の重要な遺構が数多く見つかっており、纒向遺跡にこの時期の大規模な集落が存在したことがわかっています。平成18年2月から3月にかけて実施した第145次調査では、古墳時代前期の遺構とともに、もう少し新しい時期の古墳が確認されました。

 

第145次調査地は、纒向遺跡の中でも西側にあたる大字東田に位置します。ここでは全長10m前後に考えられる小さな方墳が2基見つかりました。これらの古墳は上部が大きく削られており、現在ではその存在は全く知られていませんでした。しかし調査によって古墳の周囲にめぐらされた溝と、そこに落ち込んでいた円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)の破片が見つかり、古墳の存在が明らかになっています。古墳の名前は付近の地名から、「ヤナイタ1号墳・2号墳」としました。築造された時期は、確認された埴輪から古墳時代中期末~後期(5世紀末~6世紀前半頃)と推定されます。

 

纒向遺跡の西部一帯では、これまでの調査でも高塚古墳群や勝山東古墳など、古墳時代後期の小規模な古墳が複数確認されています。これらの古墳は、大規模集落が衰退した後の纒向遺跡の状況を示す貴重な資料であると言えるでしょう。

ヤナイタ古墳群の写真

発掘調査現場から(222回)

広報「わかざくら」 平成18年3月号掲載

古墳時代後期の建物群

城島(しきしま)遺跡は三輪山の南側、現在の初瀬川南岸一帯に広がる遺跡です。周辺は古来より「シキシマ」と呼ばれ、欽明天皇の宮殿である磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)や迹見(とみ)の驛家(うまや)の所在に関する伝承も残っているなど歴史的にも重要な地域と考えられています。現在までに38回の調査が行われ、主に古墳時代後期の落ち込み、飛鳥時代の掘立柱(ほったてばしら)建物・柵列(さくれつ)・水田跡などが見つかっています。

城島(しきしま)遺跡の写真1

今回の第39次調査地は遺跡範囲の西端近くに位置しています。期間は平成17年11月から12月にかけて行いました。その結果、古墳時代後期の柱穴・竪穴式住居・古墳時代前期の遺物が多量に出土した溝が確認できました。
このうち古墳時代後期の柱穴は調査範囲内では約60基を数え、それにより建物が何棟並ぶか柵列となるかどうかはまだ検討が必要なものの、北東方向に主軸が傾いて並ぶ事がわかりました。

 

また同じく検出した同時代の小型の方形竪穴式住居2棟についても北東方向への傾きが見られる上、造付竃(つくりつけかまど)が北東側に設けられている事も確認できました。
これまでの調査の中では、城島小学校改築に伴う調査で見つかっている飛鳥時代の建物・柵列も同じく北東方向へ傾いており、主軸の方位は城島遺跡の古墳後期~飛鳥時代を通じての共通点と言えるかも知れません。

 

ところで古墳時代後期の遺構が検出された調査に第20次調査があります。調査面積は大きくなかったものの多量の土器などの遺物と竪穴式住居の可能性がある方形の落ち込みが3基確認されています。この調査は今回の調査地の西約120メートルの遺跡範囲西端にあり、地形的には今回の調査区がのる自然堤防状の微高地よりさらに一段高い場所になります。第20次調査の段階で城島遺跡の古墳時代後期の中心になる地域をその微高地一帯と推測していますが、今回の調査結果はそれをさらに補強する資料となっています。

城島(しきしま)遺跡の写真2

発掘調査現場から(221回)

広報「わかざくら」 平成18年1月号掲載

珠城山古墳群の調査

平成17年2~3月、8~10月の2回にわたって桜井市穴師所在の国史跡珠城山古墳群(前方後円墳3基)の調査を行いました。
珠城山古墳群は、昭和30年代にこの場所で土砂採取が行われた際に、横穴式石室が発見され、県によって緊急調査が行われています。その時に1・3号墳の石室内から、馬具・刀剣・装飾品類など豪華な副葬品が出土し、6世紀代に築造されたことがわかっています。

 

今回は1・2号墳の古墳の範囲を確認するための調査を行いました。後世にたびたび改変を受けており、築造当初の姿をとどめている部分が少なかったのですが、1号墳(全長50~60メートル程度)後円部からは埴輪片が多量に出土し、古墳の周囲に埴輪が巡っていたことがわかりました。2号墳では前方部の西側で、幅4メートル、深さ1.2メートル程の掘割(古墳を区画する溝)が検出され、全長80~85メートル程度の規模をもつことがわかりました。
6世紀代の古墳が直径10~30メートル級の規模のものが大半を占める中で、珠城山古墳群の規模は非常に大きいものといえるでしょう。
また、前方後円墳3基が密集して築かれることは珍しく、豪華な副葬品が出土していることなども併せて考えると、当時の政権内においても重要な役割を果たしていた人物が埋葬されていると思われます。
また、この時期は、前方後円墳が築造される最後の時期であり、古墳時代の終焉を考える意味でも重要な古墳群です。
(写真は、2号墳前方部堀割)

2号墳前方部堀割の写真

発掘調査現場から(220回)

広報「わかざくら」 平成17年9月号掲載

谷遺跡と安倍寺遺跡の調査

近年、谷、阿部、安倍木材団地付近の開発が増えるにつれ、発掘調査の数もまた増加しつつあります。
この地域には谷遺跡や安倍寺遺跡、大藤原京関連遺跡、古代寺院の安倍寺の存在が知られていますが、中でも谷遺跡と安倍寺遺跡については16年度だけでも5回調査が行われ、その結果少しずつですが遺跡の内容がわかるようになってきました。安倍木材団地内の北と南に隣接して位置するこれら二つの遺跡では、現在遺跡範囲の中央を南北方向に走る主要地方道桜井明日香吉野線を目安として、主に西側が弥生時代後期~古墳時代前期、東側が古墳時代中期~飛鳥時代の遺構・遺物が確認される事が解ってきました。
この他にも古墳時代中~後期の遺構が調査された際には、高い頻度(ひんど)で鍛冶(かじ)に関連する遺物であるフイゴ羽口(はぐち)片・鉄滓(てっさい)片や玉造(たまつくり)に関係する遺物などが両方の遺跡から出土するなど、特殊遺物での共通点も確認されています。これらの事から、時期による範囲の違いはまだ検討しなければならないものの、二つの遺跡は一連の集落の遺跡になる可能性が高いと考えられるようになってきています。
また両遺跡で出土した遺物の中から、縄蓆文(じょうせきもん)タタキや格子目(こうしめ)タタキなど朝鮮半島で使われている土器と共通する仕上げや形をしている土器が確認されるようになってきています。古墳時代の鍛冶や玉造などの特殊技術は渡来系の人々との関連が考えられており、今後の谷遺跡と安倍寺遺跡の調査ではこれらの人々に関する遺構や遺物のなどの資料の増加が注目される点になると思われます。

(写真は、谷19・15次調査出土の縄蓆文(じょうせきもん)・格子目文(こうしめもん)が残る土器)

縄蓆文(じょうせきもん)と格子目文(こうしめもん)が残る土器の写真

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