現在の位置

発掘調査報告(240回~249回)

発掘調査現場から(249回)

広報「わかざくら」 平成23年1月掲載

上之宮遺跡第19次調査

上之宮遺跡はその地名やこれまでの調査で6世紀後半~7世紀初頭の居館跡や石組の園池遺構などが見つかっていることから、聖徳太子が幼少・青年期を過ごした「上宮」の候補地のひとつとされています。

 

今回の調査は大型建物や園池遺構のある当遺跡中心域の北東側、寺川に隣接する場所で実施しました。調査地付近は遺跡の東端として推定されており、第9次調査検出の柱列(柵)がその境界であるとされていましたが、今回その外側で新たな遺構が発見され、遺跡の範囲がさらに寺川近くまで展開することが明らかとなりました。調査区内は、高い比率で粘土ブロックや小石を含む整地土が、約20~40 センチメートルの厚みで広がっており、主な遺構はこの上面から掘られています。今回見つかった遺構には、2棟の建物と考えられる柱列があり、ひとつは一辺が1~1.2メートルの方形プランをもつ大型柱穴で構成されるもので、4基が南北に並ぶ南北3間以上の建物です。もう一方の建物は、それとは別の方位に柱穴が並び、南北1間もしくは2間の規模であると考えられます。

 

上之宮遺跡は5時期にわたって遺跡が展開し、それぞれの時期によって建物の方位が異なることがわかっています。とくに今回の大型柱穴をもつ建物は、柱穴からの出土遺物は乏しいですが、おおよそ6世紀中頃におさまるもので、方位が8度西に傾くことから、上之宮1期に所属する可能性が高いと考えられます。また、当遺跡の北側のエリアではこれまでにも整地土が確認されており、遺跡がつくられはじめた当初の段階から大規模な造成を行ない、建物群が配置されていたことが想定されます。

 

これらの遺構は、上之宮遺跡の最も栄えた時期とは異なりますが、手掛かりの少ない6世紀中頃の様子を復元していく上で貴重な情報となりました。

上之宮遺跡の写真

発掘調査現場から(248回)

広報「わかざくら」 平成22年9月掲載

茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)第3次調査

三輪山の西麓に位置する茅原大墓古墳は、帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳の代表的な事例として国史跡に指定されています。墳丘は全長約85メートルに復元され、大きな後円部に対し、前方部が極端に短く低い形態であるのが特徴です。また墳丘の西側にある細長い池は、周濠(しゅうごう)の痕跡であると考えられています。現在桜井市では、この古墳を多くの方々に見学していただけるような史跡整備を計画しており、平成20年度より古墳の形態を確認するための発掘調査を実施しています。

 

平成21年度に実施した第3次調査では、後円部頂と2段目の平坦面で円筒埴輪(えんとうはにわ)列が確認されました。円筒埴輪は上部が失われていますが、底部径が40 センチメートル以上の大きなものが含まれていました。このほか後円部と前方部の接続部分では葺石(ふきいし)が見つかりました。出土遺物としては円筒埴輪のほか蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)などの破片があり、これらから築造時期は古墳時代中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭頃)に考えられます。

 

桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、3世紀代から相次いで全長200メートル以上の大型前方後円墳が築造されました。しかし4世紀後半頃の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(天理市)を最後としてそうした古墳は築造されなくなり、桜井周辺の勢力がこの時期に衰退していったと推定されます。茅原大墓古墳はその衰退期に築造されたと考えられます。

 

茅原大墓古墳は決して小さな古墳ではありません。しかし前段階の大型前方後円墳と比較すると規模が小さく、墳形が帆立貝形となっている点は、この地域の勢力衰退の様子を象徴的に表しています。茅原大墓古墳は、当時の政権中枢における勢力変動を示す重要な資料であると言えるでしょう。

茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)の写真

発掘調査現場から(247回)

広報「わかざくら」 平成22年7月掲載

箸墓古墳の外濠状遺構

纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃~後半に築造された最古の定型化した前方後円墳として、また日本列島における最初の大王墓として、全国的にもよく知られている古墳です。全長約280メートルの墳丘部分は、現在倭迹迹日百襲姫の大市墓として管理され、調査・立ち入りができません。したがって墳丘周辺で実施される発掘調査は、箸墓古墳に関する新たな知見が得られる貴重な機会となってきました。

 

このような発掘調査の積み重ねにより、墳丘の周囲をめぐる幅10メートル程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構の存在が明らかになりつつあります。平成21年度に前方部の南側で実施した纒向遺跡第163次調査(箸墓古墳周辺第19次)においても、外濠状遺構の一部が検出されました。前方部南側で確認されたのは今回がはじめてであり、その幅は50メートル以上と大規模なものでした。またその南端部分では人工的な盛り土が確認されました。外濠状遺構が掘られたのちに、外周部分が整えられている可能性が考えられます。

 

箸墓古墳の築造は、日本列島はじまって以来の国家的大事業であったと考えられます。確認された大規模な外濠状遺構は、列島最初の大王の墓にふさわしい、箸墓古墳の壮大な全容を浮かび上がらせました。

箸墓古墳の外濠状遺構の写真

発掘調査現場から(246回)

広報「わかざくら」 平成22年5月掲載

纒向遺跡第166次調査(2)~3世紀最大級の大型建物~

纒向遺跡はこれまでに160回を超える調査を40年近く実施してきましたが、未だ遺跡全体の数パーセントしか調査は進んでいません。そのため、纒向遺跡の居住域や集落の中心がどこにあるかなど、まだまだわからないことが多い状況でした。

 

そんな中、昨年の3月に行われた第162次調査では3世紀前半の建物と柵の跡が発見され、今回の第166次調査でも、方位や軸線を揃えて計画的に配置された建物群とともに、南北4間(19.2メートル)、東西4間(12.4メートル)、床面積は238.08平方メートルの規模をもつ3世紀最大級の大型建物が見つかりました。

 

この大型建物の柱穴は全て一辺1メートル~1.7メートルの方形プランのもので、柱材は全て抜き取りが行われ、柱穴内には残っていませんが、残された柱の痕跡からその太さは32センチメートル前後のものと推定されます。このような柱は弥生時代にみられた大型建物の柱に比べると細い印象をもちますが、建物の柱は建物全体を支える主柱と床だけを支える束柱をもつなど、より高度な建築技法を用いています。主柱の柱間は南北間で4.8メートル前後、東西間で3.1メートル前後になると考えており、柱間の広い南北間のほぼ中央に束柱が並びます。建築学博士の黒田龍二氏(神戸大学)の復元(図)によれば、高床の高さが約2メートル、建物全体の高さが約10メートルにもなる巨大な建造物であったことが窺えます。

 

また、建物だけの発掘調査ではその性格や機能などを解明することは困難ですが、広い柱間をとっていることから、この建物内部に広い空間を必要とする目的で建てられたことは間違いないと言えるでしょう。それが祭祀場なのか、共同作業場なのか、あるいは纒向遺跡の中心的な人物がいた場所なのか…今後、建物周辺の全体的な構造を明らかにすることが、その手掛かりとなってきます。

纒向遺跡第166次調査の写真

発掘調査現場から(245回)

広報「わかざくら」 平成22年3月掲載

纒向遺跡第166次調査(1)~大型建物のその後~

纒向遺跡第166次調査は卑弥呼や邪馬台国の時代と同じ3世紀前半の時期の大型建物が発見され、話題となった発掘調査です。今回見つかった建物は調査状況や建築学的な検討から南北19.2メートル×東西12.4メートルの規模として復元されていますが、実際に検出できた建物の痕跡は東側半分だけでした。これは建物が廃絶した後、後の時代の人々がこの地を利用したことにより、建物西側の痕跡が失われたためです。今回は3世紀の建物ではなく、それと重なり合う200~300年ほど新しい時代の遺構について見ていきたいと思います。

 

今回の調査では大型建物よりも新しい2条の大きな溝が見つかりました。一つは3世紀の大型建物跡に重なる幅約7メートルの溝(写真中央やや右上)で、南北方向に伸びています。溝には多くの建築部材が良好な状態で残っており、古墳時代の建物を復元する上で重要な資料が発見されました。また調査地の北側と南側にある河川は東から西へと流れるのに対して、検出した溝は南北に方位をもつため、この地域を区画する目的で人為的に掘られたものだと考えられます。さらに、土層堆積の状況などから、5世紀末には溝を埋めて整地されることも確認できました。すぐ西側に位置するもう一方の溝(写真の中央)は、この整地の上から掘られており、溝の両岸には灰白色の拳大の石を貼っています。この時代にこれほど手の込んだ構造の溝は県内でも数例しかなく、当時この地を治めた豪族の館に伴う濠であったと考えられます。

 

纒向遺跡内では5世紀後半に多くの古墳が再び現れ始めますが、この時期の状況は古墳の存在以外よくわかっておらず、集落を特定するような遺構は見つかっていませんでした。ところが、今回の調査により、再び纒向遺跡で古墳を築く時期の集落の一角がようやくわかってきたことは大きな成果といえるでしょう。

纒向遺跡第166次調査の写真

発掘調査現場から(244回)

広報「わかざくら」 平成22年1月掲載

纒向遺跡第167次調査

纒向遺跡は弥生時代終末期~古墳時代前期前半頃(3~4世紀前半頃)に栄えた集落跡であり、大型の前方後円墳である箸墓古墳や出現期の古墳である東田大塚古墳などの古墳が多く確認されています。また、最近の成果では3世紀前半の大型建物跡が発見され、邪馬台国論争に一石を投じることとなりました。今回の第167次調査は大型建物跡が見つかった場所から南東に約600メートルの巻野内地内で行われました。

 

今回の調査地の周辺には巻野内石塚古墳や小川塚古墳などがあります。また、東側で実施された第42次調査では、4世紀初め頃の鶏形埴輪や冠帽形埴輪が出土しています。これらのことから新たな古墳の存在が確認できることを期待されましたが、残念ながら古墳に関係するものは確認できませんでした。しかし、今回は纒向遺跡ではあまり確認されていない奈良時代中頃~平安時代初頭の建物跡2棟と柵跡2列を見つけることができました。建物1(SB‐1)は4間×2間以上の大きさで、住居であったと考えられます。もう1棟の建物2(SB‐2)は3間×2間以上の大きさの総柱建物で、倉庫として利用していたと考えられます。さらに2つの柵(SA‐1、2)は調査地外に拡がることも考えられることから、建物の一部である可能性があります。

 

調査地の近くにある九田寺には、墓地中央棺台の蓮台に転用された石灯籠の基礎があります。この基礎は様式手法から天平末期の作と考えられています。また、出土遺物の中に奈良~平安時代頃の瓦があることから、今回の調査で見つかった建物跡が寺院に関係するものである可能性が考えられます。調査地周辺はあまり発掘調査が進んでいない地域ですから、今後の調査によっては寺院が存在したことが分かるかもしれません。

《写真》柱穴群(北から)

柱穴群の写真

発掘調査現場から(243回)

広報「わかざくら」 平成21年11月掲載

堂ノ後古墳の発掘調査

堂ノ後古墳は箸中に所在する古墳です。今回、纒向遺跡第164次調査として、堂ノ後古墳の範囲確認を目的とした発掘調査を初めて実施しました。東側には石囲い木槨の中心埋葬施設が発見されて脚光をあびたホケノ山古墳(3世紀中頃)が隣接し、周辺にはそのほか古墳時代中・後期の古墳も点在しています。堂ノ後古墳は先行研究によると、後円部径約50メートル、前方部長10メートル以上、全長62メートル以上の東南方向に前方部を持った前方後円墳の復元案が提示され、さらにホケノ山古墳に先行する可能性も指摘されています。これらのことから、堂ノ後古墳はホケノ山古墳同様、古墳時代初頭の纒向型前方後円墳の可能性が想定されるところとなり、その一端の解明が期待されました。

 

調査は築造時期と前方部を確認することを主目的として、墳丘部南側の水田に調査トレンチを設定しました。その結果、トレンチ東端で前方部が確認できました。これにより、堂ノ後古墳が前方後円墳であることが確定的となりました。前方部付近では多量の石が現位置を留めない状態で転落していたことから、前方部には当初葺石が施されていたとみられます。周濠は深さ約0.4~0.65メートルで、多くの円筒埴輪片が出土しました。周濠からはそのほか、鶏形埴輪の頭部、ほぼ完形の『須恵器はそう』等が出土しています。築造時期については、出土遺物から5世紀後半頃と考えられます。これにより、堂ノ後古墳の築造時期はホケノ山古墳より2世紀以上下ることが明らかとなりました。今回の調査では、当初期待されていた古墳時代初頭の前方後円墳であることは否定されましたが、古墳時代中・後期における当地域の古墳を考える上で、重要な遺跡であることに変わりはないでしょう。

《写真》鶏形埴輪出土状況

鶏形埴輪出土状況の写真

発掘調査現場から(242回)

広報「わかざくら」 平成21年9月掲載

大福遺跡第28次調査~銅鐸片の発見~

大福遺跡は大福小学校の建て替え時(昭和60年)に銅鐸が完全な形で出土したことで有名な弥生時代の遺跡です。桜井市では平成18~20年度にかけて市道建設に伴う発掘調査を大福遺跡内で行なってきました。特に昨年度に行われた第28次調査では弥生時代後期後半(2世紀後半)の大溝が検出され、多くの遺物が出土しました。その中でも木甲(木のよろい)は、全国的にも珍しく、最も残存状態の良好なものでした。これらの成果は平成21年3月の現地説明会で市民の方々にも見ていただくことができました。

 

調査では非常に多くの遺物が出土したため、調査終了後の現在も土器の洗浄を埋蔵文化財センター内でおこなっています。大溝から出土した土器を洗浄したところ、土器にまじって銅鐸の破片を新たに見つけることができました。銅鐸片は舞と呼ばれる部分で、破断面が鋭利なため故意に破砕されたものと思われます。この銅鐸片が出土した周辺からは青銅器の鋳造の道具(送風管、鋳型外枠)や銅滓(銅のくず)なども出土しています。鋳造の道具が銅鐸の製造に使うものではないため、銅鐸を壊してその破片を原料として他の製品(銅鏃)に造り変えていたと推測されます。このような成果は、本調査地のすぐ北側で行われた第26次調査でも見つかっており、周辺には青銅器鋳造工房があったことが想定されます。神聖な銅鐸を破砕する行為は、銅鐸祭祀の終焉、すなわち、弥生文化の終焉を表すものです。

 

今回の調査では集落の様相の一端をとらえたに過ぎませんが、このような出土遺物などから、奈良盆地の有力な集落の一つになることは間違いありません。弥生から古墳時代の変遷を考える上で重要な遺跡です。

大溝の遺物出土状況の写真

大溝の遺物出土状況

銅鐸片の写真

銅鐸片

発掘調査現場から(241回)

広報「わかざくら」 平成21年7月掲載

纒向遺跡第162次調査

第162次調査の調査地は、纒向駅のすぐ西側にあります。南北に旧河道が流れる太田北微高地上に位置し、すぐ西側には祭祀土坑群が広がる地域が存在します。昭和53年の調査(第20次調査)で柵に囲まれた建物(SB‐101)などを検出しており、今回の調査はそれらの遺構群の広がりを確認する目的で実施されました。

 

調査区は南北に傾斜する微高地上に位置しており、その地形に合わせて整地土が厚く盛られ、平坦な土地をつくっています。整地土内からは庄内式期古相(3世紀前半)の土器が出土しており、下層遺構は主にこの時期に構築されます。また、これらは庄内3式期(3世紀中頃)の溝によって壊されていることから、この時期に廃絶するものと考えられます。

 

建物SB‐101は当初、全面を柱列が囲むものと想定していましたが、今回の調査で柱列は東側に巡らず、南北へ伸びていくことがわかりました。そのため、建物の周囲を取り巻く柱列は、南北に直線的に伸びる柱列のラインに対して西側へ張り出すような構造になります。さらに南北へ伸びる柱列は調査区内で直角に方向を変え、東へ伸びていく複雑な構造が確認されました。また、SB‐101の東側では南北2間以上、東西1間以上の建物を新たに検出し、改めて20次調査成果を再検討したところ、SB‐101の西側約10.5メートルの位置に他の柱列と軸線を揃えた柱列の存在も明らかとなりました。そのため、大規模な整地を行なった微高地上を東西に3棟の建物と柵などが強い規格性のもとに構築されており、これらの遺構群が纒向遺跡の中でも何らかの特別な施設の一部となる可能性があります。

 

古墳時代前期初頭において、このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の存在は全国的にも珍しいもので、今後は更に周辺地区の調査を推進し、その構造や性格を明らかにしていきたいと考えています。

纒向遺跡第162次調査の写真

発掘調査現場から(240回)

広報「わかざくら」 平成21年5月掲載

東田大塚古墳第6次調査

纒向遺跡の西側に位置する東田大塚古墳は、日本列島で最古の前方後円墳の一つとして知られています。墳丘は後世の開発により大きく改変されており、特に南西方向にのびる前方部の形態については、現況から推測することも難しい状況にありました。桜井市教育委員会では平成18年度より、東田大塚古墳の前方部の形態を明らかにするため、範囲確認調査を実施してきました。これらの調査成果により前方部が従来考えられていたよりも長くなることがわかるなど、前方部の平面形態が少しずつ明らかになってきています。

 

平成20年度の第6次調査は、前方部の西側から南側部分において実施しました。その結果、前方部南側面と前方部前面の墳丘端を確認することができました。これにより前方部の全体像を復元することが可能となり、東田大塚古墳の墳丘の全長が120メートルであることが明らかとなりました。また後円部周辺で確認されている周濠状遺構が、前方部付近には存在しない可能性が高くなりました。

 

今回の調査で前方部形態が明らかになったことにより、3年度にわたって実施してきた東田大塚古墳の範囲確認調査は一旦終了することになりました。これまでに蓄積された調査成果をもとに、他の出現期古墳と東田大塚古墳を比較・検討し、古墳出現期の様相を考えていくことが今後の重要な課題です。

《写真》東田大塚古墳の前方部前面(白線部分)

東田大塚古墳の前方部前面の写真

お問い合わせ先
桜井市教育委員会事務局 文化財課
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