現在の位置

発掘調査報告(250回~259回)

発掘調査現場から(259回)

広報「わかざくら」 平成28年9月掲載

城島遺跡第49次調査

 城島( しきしま) 遺跡は、三輪山西南麓、初瀬川と粟原川によって形成された扇状地上に立地し、JR桜井線の東側一帯に広がる遺跡です。
 第49次調査は、平成27年度に城島小学校の東側に位置する場所でおこなわれました。東西2ヶ所の調査区から、古墳時代中期(5世紀) 頃の水田が厚さ30センチメートル程の砂の層に埋もれた状態で発見されました。
 水田の大きさは一辺5メートル以上で、一枚当たりの面積は30平方メートル前後になると考えられます。このような小規模な水田が地形の傾斜に沿って作られていました。畦(あぜ) や水口、排水用と考えられる溝などもあわせて見つかっています。
 水田には、この他に農具の痕跡や人の足跡が非常に良好な状態で残されていました。確認された足跡は23センチメートル程の大きさのものが多く、中には19センチメートル程度とやや小さいものもありました。

 こうした発掘調査での成果は、10月2日まで埋蔵文化財センターで開催中の発掘調査速報展で展示中です。城島遺跡からは、出土した土器の他に、水田に残された足跡の石膏型も展示しています。普段見ることのできない古墳時代の人の足の裏をこの機会にぜひ観察してみてはいかがでしょうか。
 現在開催中の速報展の報告会を9月10日におこないます。今回掲載の城島遺跡のほか、二反田古墳などの調査成果を報告しますのでぜひご参加ください。

城島遺跡第49次調査

発掘調査現場から(258回)

広報「わかざくら」 平成28年7月掲載

纒向遺跡第186次調査

 昨年度、市教育員会では、大字大豆越において纒向遺跡第186次調査を実施しました。この調査は、天理市との市境付近に所在する二反田(にたんだ)古墳の第1次調査としておこないました。二反田古墳は以前から古墳と認識されていましたが調査はおこなわれていませんでした。
 二反田古墳は現況で一辺20メートル、高さ約2メートルの高まりが残っています。今回は調査区を3か所設定して調査をおこないました。
 調査の結果、3つの調査区全てで葺石を検出することができました。葺石には拳大の石が使用されており、最下段ではおよそ50センチメートルの基底石を検出しました。埴輪が多く出土しており、そのほとんどが、鰭付楕円筒埴輪(ひれつきだえんとうはにわ)であると考えられます。壷形埴輪や形象埴輪も少数ですが出土しました。
 今回は古墳の北西側の調査だったため、東側や南側がどれだけ削平されているかわかりませんが、現況の残存している東側の墳丘裾から葺石の基底石までの距離が30メートルになることから、墳丘規模は30メートル以上の方墳であった可能性が考えられます。古墳の築造時期については、出土した埴輪から古墳時代前期半ば(4世紀初め)の築造と考えられます。
 現在開催中の発掘調査速報展で、今回出土した埴輪の一部を展示していますので、ぜひ観覧してください。

二反田古墳

発掘調査現場から(257回)

広報「わかざくら」 平成28年5月掲載

盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)が市指定文化財に

 市教育委員会では、以前から市内の文化財のうち重要なものを「市指定文化財」に指定し、後世に伝えていけるよう努めています。今回は、新たに市指定文化財に指定されました茅原大墓古墳の盾持人埴輪を紹介します。

 盾持人埴輪は、盾を構えた人物を造形した埴輪で、全国で百数十例の存在が知られています。その大半は5~6世紀のもので、古墳を邪悪なものから守るために配置される埴輪であると考えられています。このたび指定された盾持人埴輪は、平成22年に大字茅原にある茅原大墓古墳(国史跡、全長約86メートル)で出土し、この種類の埴輪としては全国で最も古い4世紀末頃の例であることがわかりました。墳丘の裾に樹立されたことも明らかとなり、埴輪祭祀(さいし) の変遷を考えるうえで注目される資料となっています。

 記録作成作業などのため、ここ数年間はこの盾持人埴輪を展示していませんでした。このたび、作業の完了と文化財指定を機に、4月より埋蔵文化財センターで常設展示しています。赤く彩られた顔の表情や、精細な盾の表現など、多くの見どころがある遺物です。

盾持人埴輪の写真

発掘調査現場から(256回)

広報「わかざくら」 平成25年7月掲載

大福遺跡第30次調査

大福遺跡は桜井市西部に位置する奈良県東南部を代表する弥生時代集落として知られています。今回の調査は中和幹線の南側、大福小学校から西に約400メートルのところで行いました。

 

調査では、奈良時代の井戸、大藤原京北三条大路北側溝、同じく東五坊大路東西側溝、古墳時代前期前半頃の方形周溝や弥生時代の坪井・大福集落を取り囲む環濠の一部を見つけることができました。特にこの環濠はこれまでの調査成果と合わせると直径約400メートル、面積約1.2ヘクタールの大集落となることがわかりました。また、環濠の出土遺物はあまり多くなく、破片ばかりであることから多重環濠の外側に近いものと考えられます。出土遺物では奈良時代の井戸から斎串や墨書土器などの祭祀遺物、環濠では、弥生時代中期~後期の土器や石器が見つかりました。

 

さらに、遺構からの出土ではありませんが、「筒状銅器」と呼ばれる青銅器も見つかっています。これは長さ9センチメートルほどの円筒状をしていて四方に円孔とスリット状の透かし孔があけられているものです。一緒に出土した土器から、弥生時代後期~古墳時代前期初頭頃のものと考えられます。現在のところ、同じようなものは全国で10例見つかっていますが、奈良県内では最初の出土となります。用途はよくわかっておらず、槍の石突部分の可能性が考えられています。また、古墳時代前期中頃~中期の古墳の副葬品に「筒形銅器」という青銅器が見つかっていて、形状に類似点が多いことから筒状銅器が筒形銅器の祖形ではないかという説があります。

 

今回の調査では坪井・大福集落の環濠や、全国的にも例の少ない筒状銅器を見つけることができました。しかし大福遺跡はわかっていないことがまだまだ多く、今後の調査・研究によって明らかにしていきたいと考えています。

弥生時代の環濠の写真

弥生時代の環濠(南西から)

筒状銅器出土状況の写真

筒状銅器出土状況(南から)

発掘調査現場から(255回)

広報「わかざくら」 平成24年5月掲載

茅原大墓古墳の渡土堤

桜井市北部に位置する茅原大墓古墳は、後円部の規模に対して著しく小規模な前方部をもつ「帆立貝式古墳」の典型的な事例として知られ、昭和57年に国史跡に指定されています。平成22年度までに4次にわたる発掘調査が実施され、墳丘全長が約86メートルであることや、古墳時代中期初頭(4世紀末頃)に築造されたことが明らかとなりました。また前回の第4次調査では、全国で最古の事例となる盾持人埴輪が出土し、注目を集めました。

 

平成23年度の第5次調査では、くびれ部の周辺や前方部の北東隅付近に調査区を設定しました。このうち前方部北東隅の調査区では、前方部前面と周濠の外側をつなぐ渡土堤が見つかりました。確認された渡土堤は幅・長さともに約7メートルで、盛土によって構築されており、両側には葺石が施されていました。渡土堤は、古墳の外側と墳丘をつなぐ通路としての役割を持つとされています。また茅原大墓古墳のように斜面地に立地する古墳では、渡土堤で周濠を仕切ることにより、周濠の水位を調節していたと考えられています。同様の渡土堤は、箸墓古墳や渋谷向山古墳など、茅原大墓古墳の周辺に立地する大型古墳でも確認されています。

 

5次にわたる発掘調査により、茅原大墓古墳の全体像が概ね明らかとなりました。これまでの調査成果を踏まえて、今後の古墳の整備や研究に役立てていきたいと考えています。

渡土堤と墳丘の写真

《渡土堤(手前)と墳丘》

発掘調査現場から(254回)

広報「わかざくら」 平成24年3月掲載

長谷寺第3次発掘調査

長谷寺第3次発掘調査は、真言宗豊山派の総本山 長谷寺境内にある本願院で実施されました。本願院は元長谷寺や三重塔跡などのある平坦面より一段下に位置し、現在は門と石垣を残すのみです。その創建は神亀年間(724~729年)とされ、長谷寺の創建に関わった本願徳道上人が住んでいた場所とされています。しかし、度重なる火災などで消失し、天文2(1533)年に再建された本瓦葺建物が近代まで存続していたようです。また、江戸時代の絵図には本願院を2棟の建物で描写しており、その内の1つに見られる瓦葺き屋根の表現がこれに該当するものと考えられます。

 

さて、本願院敷地内では、ベースとなる岩盤層が大きく削り取られており、今回の調査は辛うじて残存する高まりの上部で行うことになりました。まず、調査区の西半では、土管状につくられた瓦管がT字に並んでいる状況が確認されました。これは本願院の敷地内に水を引き込むためのものと考えられ、江戸時代には上水道が整備されていたことが窺えます。

 

さらに、西端では北から西にかけて築かれた石垣の痕跡が検出され、それに平行する建物の柱穴も見つかりました。これらの正確な時期はわかりませんが、瓦管に壊された状況で見つかっていることから、それよりも古い遺構であると言えます。天文2年に再建された建物、或いはそれよりも古い時代の建物跡であるかもしれません。

 

今回の調査では、少なくとも2時期に亘る遺構の存在が明らかとなり、文献だけではわからない当時の長谷寺境内の姿を垣間見ることができました。

長谷寺第3次発掘調査の写真

発掘調査現場から(253回)

広報「わかざくら」 平成23年11月掲載

纒向遺跡第172次調査

纒向遺跡第172次調査は大字東田の纒向小学校の北側でおこないました。長さ8メートル×幅6メートルと狭い調査範囲でしたが、古墳時代の遺構を確認しました。

 

今から約40年前、調査地の南側にある纒向小学校を建設する際に行なわれた発掘調査では、幅5メートルもある人工の溝「纒向大溝」が発見されています。纒向大溝は纒向遺跡が栄えた3世紀に交通や農業用水路の大動脈として機能していたのではないかと考えられています。今回の調査地は纒向大溝の北側の延長線上に近いため、関連する遺構の発見が期待されました。

 

発掘調査の結果、現在の地表面の約1.5メートル下から、5世紀の溝と、3世紀の溝や土坑(穴)を確認しました。3世紀の溝や土坑からはたくさんの土器が出土しました。土器には煤やオコゲのついたものもあるので、煮炊きに使われた後に捨てられたものと考えられます。ただし、纒向大溝の続きのような大きな溝は発見されませんでした。

 

5世紀の溝からは木製の鋤(スコップ)や米などを蒸すための甑、木製の建築部材のほか、古墳の上にたてられる埴輪の破片が出土しました。調査範囲が狭く確実ではありませんが、埴輪が出土したことから5世紀の溝は古墳のまわりをめぐる周濠の一部である可能性があります。古墳の盛り上がった墳丘部分は後世に削られてしまい、溝だけが残ったのかもしれません。

 

今回の調査では纒向大溝の続きは発見できませんでしたが、古墳時代の人々がおこなった様々な活動の痕跡を確認できました。これは纒向遺跡の理解を一層深めてくれるものと言えるでしょう。

纒向遺跡第172次調査の写真

発掘調査現場から(252回)

広報「わかざくら」 平成23年9月掲載

談山神社妙楽寺跡第1次調査

談山神社・妙楽寺跡第1次発掘調査は談山神社の本殿床下でおこないました。談山神社境内での初めての発掘調査になります。談山神社は桜井市南部の山間部に所在し、標高約500メートルと桜井市でも高いところにあります。談山神社の歴史を描いた『多武峰縁起』によれば、大化改新の準備に中大兄皇子と藤原鎌足が談合した場所とされ、「談山」の由来となっています。社寺としては678年に藤原鎌足を改葬し、十三重塔を建築したのが始まりとされます。中世には神仏習合により、多武峰寺あるいは妙楽寺として僧兵を有して隆盛を誇る一方、興福寺や室町幕府などとの抗争で何度も焼き討ちにあっています。近世にも大きな社寺でしたが、明治維新以後は神仏分離により仏教寺院は破却・転用され、談山神社として現在にいたっています。

 

調査地である談山神社本殿は御破裂山の南斜面にあります。本殿の床下は石敷きですが、この敷石を剥がして、第二次世界大戦末期に神像退避用の防空壕が造られたままになっていました。この防空壕は縦横2メートルほどですが、本殿の柱近くまで掘られており、建物への影響が心配されたため、埋め戻すこととなりました。ところが、65年前に防空壕を掘った際、鏡や五鈷杵、銅製筒形容器など、様々な遺物が発見されていたため、埋める前に調査することとなりました。

 

その結果、本殿の石敷きの下には、少なくとも幅2.5メートルある大きな坑が掘り込まれ、その後埋め戻されていることや、その上に何度か土盛りがおこわれていることがわかりました。防空壕を掘った際に出た土からは、密教法具である輪宝(写真)や、ガラス玉、奈良~平安時代の瓦、銅製の釘や玉などが出土しました。このうち輪宝は鏡や五鈷杵と同時に埋納されていた可能性もあるでしょう。また、奈良~平安時代の瓦は、考古学的に多武峰が古代にまで遡る証拠となりました。わずか縦横2メートルの小さな調査範囲でしたが、様々な発見のある調査でした。

輪宝の写真

発掘調査現場から(251回)

広報「わかざくら」 平成23年6月掲載

茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)の盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)

市北部に位置する茅原大墓古墳は、帆立貝式古墳(ほたてがいしきしきこふん)の典型的な事例として古くから知られ、昭和57年に国史跡に指定されています。市ではこの古墳の整備を計画しており、平成20年度から継続して発掘調査を実施しています。これまでの調査では葺石(ふきいし)や埴輪列(はにわれつ)が確認され、築造時期は古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)であることがわかっています。

 

昨年の11月から今年の3月まで実施された第4次調査は、墳丘の構造を明らかにすることを目的として、主に古墳の東側から北側で行われました。その結果、後円部の東側や墳丘東側のくびれ部、および前方部北側において、墳丘端の葺石が確認されました。これにより後円部径は約72メートル、墳丘全長は約86メートルに推定復元することができます。また前方部の東側では2段目の葺石が確認され、前方部が2段築成であることが明らかとなりました。このほか前方部上面では埴輪棺(はにわかん)が1基検出されています。

 

茅原大墓古墳には様々な種類の埴輪が存在することがわかっていますが、第4次調査では注目されるものとして、盾を構える人物をかたどった盾持人埴輪が出土しています。この埴輪はくびれ部付近に樹立された可能性が高く、外側の邪悪なものから古墳を守る「辟邪(へきじゃ)」の意味を持つものと考えられます。盾持人埴輪としては最古の事例であり、人物を造形した埴輪としても最も古く位置付けられ、埴輪祭祀(さいし)の変遷を考える上できわめて重要な資料であるということができます。

 

継続的に実施してきた発掘調査により、茅原大墓古墳の全容がしだいに明らかになってきました。こうした調査成果は、今後の古墳時代研究にも影響を与えることとなりそうです。

盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)の写真

発掘調査現場から(250回)

広報「わかざくら」 平成23年3月掲載

安倍寺遺跡第17次調査

市街地南部の磐余地域は、神功皇后をはじめ、履中・清寧・継体・敏達・用明・崇峻の歴代天皇が宮を造られたとされる伝承が残る歴史の古い地域です。また、古事記・日本書紀には磐余池に関する記事が記され、万葉歌人はこの地の歌を数多く詠んでいました。

 

磐余地域のこれまでの発掘調査では、今から概ね2万年前の旧石器時代から戦国時代にわたり先人が残してきた物や遺跡が見つかっています。これらはいずれも日本の歴史において非常に貴重なものであり、国史跡などの指定を受けているものがたくさんあります。

 

安倍寺跡は、昭和40年から発掘調査が実施され、7世紀後半に創建された古代豪族阿倍氏の氏寺として昭和45年に国指定を受け史跡公園となりました。安倍寺遺跡は安倍寺跡を含む東西400メートル、南北600メートルの範囲に広がる遺跡で、これまでの調査では古墳時代に玉作りや鉄器生産を行ったと考えられる物や住居跡が見つかっています。今回の調査では、5・6世紀の大量の土器や鍛冶関連遺物を含む土と、柱が沈まないように植物を敷いて固定したような柱穴などが見つかりました。また、これ以前は池、もしくは沼のような水が溜っていたような場所であり、木製品を再利用して並べたと考えられる跡も見つかり、その前には川が流れていたようです。なお、出土した土器の様子から、これらの状況は短い間のうちに変化したものであったと考えられます。さらに、藤原京の時代以降になるとこの辺りは耕作地として使用され、井戸が造られたことも分かりました。

 

現在、調査地一帯は市内随一の木材加工場である安倍木材団地として知られていますが、1400年前頃に活躍した古代豪族阿倍氏の活躍に想いをはせて散策するのも楽しそうです。

安倍寺遺跡第17次調査の写真

お問い合わせ先
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