現在の位置

発掘調査報告(260回~)

発掘調査現場から(268回)

広報「わかざくら」 平成30年3月掲載

纒向遺跡のお墓~纒向遺跡第193次調査~

 纒向遺跡は桜井市の北西部にひろがる大きな遺跡です。近年、纒向遺跡は日本の国の成り立ちを考える上で重要な遺跡として注目を集めています。

 纒向遺跡第193次調査はJR桜井線巻向駅の南西100mの地点で行いました。今回の調査では少なくとも3基の方形周溝墓と呼ばれる四角形のお墓を確認しました。およそ3世紀頃のものです。方形周溝墓は名前通り周囲に溝を掘りその内側に盛土をするお墓です。今回の場合、後世の耕作活動などで本来あったはずの盛土は既に削り取られてしまっており、周囲の溝の痕跡のみが残っていました。大きさは最大でも1辺約9mとそれほど大きくはありません。

 周辺ではこれまでにも発掘調査が行なわれており、メクリ1号墳と名付けられた前方後方墳の濠の痕跡など今回見つかった方形周溝墓以外にも複数のお墓が見つかっています。そのため一帯は纒向遺跡の中でもお墓があつまる墓域として用いられていたものと考えられます。

3基の方形周溝墓

発掘調査現場から(267回)

広報「わかざくら」 平成30年1月掲載

埴輪や外来()系(がいらいけい)土器など多数出土~纒向遺跡第192次調査~

 纒向遺跡の東寄り、大字箸中・巻野内に広がる纒向古墳群の北側で調査をおこないました。今回の調査地は、過去におこなわれた第42次調査地に隣接しており、この調査では古墳時代前期の埴輪が出土しています。

 今回の調査では、古墳時代前期の遺構が見つかりました。見つかった遺構からは、吉備系や東海系などの大和以外の地域のものを含む土器がまとまって出土しました。土器以外にも、過去に出土している冠帽形埴輪と同一個体であると考えられる()()の線刻が施された埴輪片や鶏形埴輪片などが出土しました。

 今回見つかった遺構は出土した埴輪の時期よりも古い時代のものであると考えられます。また、埴輪は出土したものの古墳に関係する遺構は見つかりませんでした。そのため、埴輪が見つかったことだけで古墳が存在していたということはできません。今後、周辺の調査が進むことによって、明らかになることを期待したいと思います。

土器がまとまって出土した様子

発掘調査現場から(266回)

広報「わかざくら」 平成29年11月掲載

大和地域以外の土器が多数出土~纒向遺跡第191次調査~

 市域の北西部に位置する纒向遺跡は、2世紀末~4世紀初めに営まれた東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡です。この遺跡は、大和地域以外から持ち込まれた「搬入土器(はんにゅうどき)」が多く出土することで知られています。今回は4月から6月にかけて大字太田で発掘調査を行いました。

 調査の結果、幅約1メートルの溝を発見しました。溝からは搬入土器や木製品がまとまって出土しています。搬入土器は東海地方のものが一番多く、この他にも北陸や吉備といった地域の土器が出土しています。東海地方で作られた甕(かめ)()には煤(すす)()が付着していることから、人々が煮炊きに使用していたと考えられます。また、これらに混じって火鑚臼(ひきりうす)やガラス玉も出土しており、当時の人々の営みを知ることができます。出土した遺物の時期は3世紀前半と考えられます。

 今回、搬入土器が出土したことにより、人々が様々な地域から纒向に移動してきたことを再確認することができました。

土器がまとまって出土した様子

発掘調査現場から(265回)

広報「わかざくら」 平成29年9月掲載

弥生時代前期の遺構発見~大藤原京関連遺跡第66次調査~

  今回の発掘調査は大字上之庄の中和幹線沿い、藤原京の道路である東五条条間路推定地で行われました。当初は藤原京に関連する遺構を確認することが期待されましたが、残念ながら該当する遺構を確認することはできませんでした。しかし、これまで未確認だった弥生時代前期の遺構を見つけることができました。

 まず調査区北側で直径約1.5mの円形の土坑を見つけ、ほぼ完形の弥生時代前期の壺が出土しました。また調査区中央では幅約3.5mの大溝を見つけました。北側の土坑と同じく、弥生時代前期の壺や甕などが多数出土したため、2つの遺構は同時期のものだと考えられます。

 過去に行われた周辺の調査では、弥生時代前期土器が確認されていましたが、遺構は見つかっていませんでした。今回、生活の痕跡である土坑や大溝を確認できたことにより、調査地周辺に弥生時代前期の集落があったと考えられます。

今回の発掘調査で出土した土器は、桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査速報展23「50cm下の桜井」にて10月1日(日曜日)まで展示しています。興味のある人はぜひ一度足を運んでみてください。

大溝から出土した土器

発掘調査現場から(264回)

広報「わかざくら」 平成29年7月掲載

茶ノ木塚(ちゃのきづか)古墳 初の発掘調査

  箸墓古墳やホケノ山古墳がある大字箸中は、市内でも古墳が多いところとして知られています。付近を歩くと、田畑の中に高まりとして残るいくつもの古墳を観察できますが、実はこれらの古墳は未調査のものが多く、その半数以上は墳丘の形や規模、築造時期がわかっていません。ホケノ山古墳のすぐ北側に位置する茶ノ木塚古墳もまた、そうした古墳の一つでした。

 茶ノ木塚古墳における初の発掘調査は、今年の2月に、墳丘の北西側で実施されました。その結果、現存する高まりから8メートル余り離れた位置で墳丘の端が確認されました。これにより本来の墳丘規模は、現存する高まりよりもかなり大きく、30メートル前後かそれ以上と考えられるようになりました。このほか葺石(ふきいし)や埴輪(はにわ)の存在も初めて明らかになりました。埴輪は円筒埴輪や蓋形(きぬがさがた)埴輪が確認されており、その特徴から茶ノ木塚古墳は5世紀後半頃に築造されたことが判明しました。

 今回の調査はきわめて小規模なものでしたが、茶ノ木塚古墳の一端を捉えることができました。今後のさらなる調査により、古墳の全体像が明らかになることが期待されます。

茶ノ木塚古墳発掘調査写真

発掘調査現場から(263回)

広報「わかざくら」 平成29年5月掲載

纒向遺跡第189次調査

 纒向遺跡は桜井市の北部に広がる、東西2キロメートル、南北1.5キロメートルと広い範囲を持つ3世紀から4世紀にかけて栄えた集落遺跡です。今回の調査は大字巻野内でおこないました。
 調査の結果、調査区内の半分以上の範囲を占める落ち込みが見つかりました。落ち込みの埋土には流水していたと考えられる砂や石の層が確認でき、多くの土器が出土しています。
 この遺構が見つかった場所は、古地形で復元されている纒向川河道(辻河道)上に位置していることから、旧河道である可能性が考えられます。堆積した時期は、確認できた中で一番古いのが古墳時代前期であり、最上層は平安時代ごろに堆積したことがわかりました。この落ち込みからは土器の他にも鉄滓(てっさい)が多く出土しており、鞴羽口(ふいごはぐち)片も見つかっていることから、近くには鍛冶工房が存在していた可能性が考えられます。
 周辺の調査では「宮内」と書かれた墨書土器などが見つかっており、身分の高い人々が存在していた可能性が指摘されています。今回も奈良三彩(さんさい)片など一般集落では見られない遺物が出土しており、古代の官道である上ツ道に近接していることから、調査地の周辺も身分の高い人々が暮らしていた地域である可能性が高まりました。

纒向遺跡第189次土器出土状況(南から)

発掘調査現場から(262回)

広報「わかざくら」 平成29年3月掲載

三輪遺跡第21次調査

 三輪遺跡は大字三輪から金屋にかけて所在する遺跡です。主に縄文・弥生時代の土器などが出土するほか、鎌倉時代頃から今の集落の原形ができ始めていたようです。
 調査はJR三輪駅の東側で行いました。この調査地を含め三輪駅西側を含む一帯は「池田」という地名の中にあたります。調査はまず敷地内で合計8か所の調査区を設定し、遺構のある場所を探すことから始めました。
 その結果、鎌倉から室町時代の南北にほぼ一直線となる溝と、西に向かって下がる落ち込みを確認しました。
 落ち込みは深さ50センチメートルで、底には長さ70~80センチメートルほどの杭を一定の間隔で打ち込んでいます。こうした構造を持つことから人工的に造られた池と考えられ、杭は護岸などの目的で設置されたと思われます。池の岸は調査区内で30メートル分が出ていますが、さらに外側へと続いているため全体の規模は不明です。
 この池は、鎌倉時代の終わり頃になると次第に埋まっていきますが、室町時代になると埋まりかけた場所に再び池が造られます。新しい池はやや浅くなりますが、やはり護岸のため沢山の杭を打ち込んでいました。
 しかし、江戸時代になると掘り返されることなく埋まってしまったようで、その後は耕作地として利用されたようです。このように三輪と大神神社周辺での土地利用の移り変わりがわかる成果となりました。

三輪遺跡第21次調査

発掘調査現場から(261回)

広報「わかざくら」 平成29年1月掲載

城島遺跡第50次調査

 城島遺跡は、今までの発掘調査の結果から、弥生時代後期から近世にかけての複合遺跡だということがわかっています。今回の調査地から南東に約100メートル離れた場所で行った39次調査では、6世紀後半の柱穴群や掘立柱建物の存在が確認されています。
 今回の発掘調査の調査面積は約45平方メートルで、平成28年9月末~10月中頃にかけて行いました。その結果、一棟の住居跡が見つかり、その下の層からは、幅が8メートル以上の溝を確認しました。遺物は弥生時代後期の壺や甕が出土しました。この住居跡は、検出した一角以外は調査区の外に続いているため、全体の大きさはわかりませんでしたが、調査区の東壁に柱穴があることが確認できました。また、遺構自体には遺物が含まれていなかったので、詳しい時期はわかりませんが、住居跡の下の土層より弥生時代後期のものだと思われる土器が出土しました。その状況から、住居跡は弥生時代以降に建てられたのではないかと思われます。
 そして住居跡の下層から見つかった溝には、弥生時代後期のものと思われる、ほぼ完形の壺などが出土しているため、その時期の遺構だと考えられます。また、遺構より下の土層は、拳大の石が多く見られ、水が湧いています。これにより、弥生時代の後期より以前は、川が流れていたのではないかと思われます。
 今回の調査では、住居跡を確認できましたが、遺構の時期は詳しくはわかりませんでした。今後は周辺で確認された住居跡と、今回確認できた住居跡が同じ時期のものなのかなど、関連性を検討していくのが課題となります。

城島遺跡第50次調査

発掘調査現場から(260回)

広報「わかざくら」 平成28年11月掲載

桜井公園遺跡群第7次調査

 平成28年2~3月にかけて、桜井公園のある安倍山丘陵の東斜面で発掘調査を行いました。桜井駅から南に約700メートル離れた場所にある安倍山は標高120メートル前後の丘陵で、頂部からは北西に広がる奈良盆地を見渡すことができます。また、丘陵の周辺には東は初瀬地域、南は多武峰や明日香地域にむかう古くからの街道があり、交通の要所に位置しているといえます。そのため、丘陵は古くから人々に利用されており、様々な時代の遺跡が存在しています。
 今回の調査では、丘陵を取り囲むような幅2.5メートル、深さ1.2メートルの溝が確認されました。溝の埋土からは弥生時代後期の甕(かめ)、壺(つぼ)、高坏(たかつき)、器台(きだい)などの土器や、炭化した米などが出土しました。
 これらの遺物は、丘陵上に住んでいた人々が溝に棄てたものと考えられます。周辺で行われた過去の調査成果をあわせて考えると、丘陵上に居住域をつくり、それを多重の溝で囲むような、非常に防御性の高い集落であったことが想定されます。
 なぜ、人々は丘陵上にこのような集落をつくったのでしょうか?この時代は「倭国乱」があったとされているときで、次の古墳時代へ向かう過渡期でした。世の中が大きく変化し、クニ同士が争った時代です。そういったなかで、奈良盆地の中でも交通の要所であるこの丘陵を選んで集落をつくったと思われます。今回の調査では、そのほんの一部を確認したにすぎませんが、弥生時代後期の社会を考える上で興味深い成果が得られました。

桜井公園遺跡

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