市の紹介(市の概要)

更新日:2024年03月29日

市の概要

位置

桜井市は、奈良盆地の中央東南部に位置し、東経 135度51分、北緯34度31分に市の中心部があります。

東西11.9キロメートル、南北16.4キロメートル、面積は98.91平方キロメートルで、奈良県総面積の2.7%を占めています。

県庁所在地奈良市までは、20キロメートル圏(30分圏)、大阪市へは40キロメートル圏(1時間圏)にあります。

桜井市の地図画像

 

 

気候

市街地を形成している奈良盆地、大和高原南部丘陵地もしくは山岳地とで気候条件が異なり、盆地山麓気候と丘陵気候とに大別されます。

丘陵部は、盆地部より気温がやや低く、降雨はやや多くなっています。全般的に夏の暑さ、冬の寒さは厳しく、盆地から山麓、さらに丘陵への移動型気候となっており、地域によって感じる気候は多岐にわたっています。

 

地勢

北部は、貝ケ平山、藺生峠、竜王山を経て奈良市、天理市に続き、南部は、竜門岳を境として吉野郡に、さらに、熊ケ岳、経ケ塚の山峰を擁し、宇陀郡におよびます。

中央部から東へは、三輪、巻向、初瀬の山々が連峰し、大和高原の一部となっています。

これらの山々に囲まれ、平坦部は、西北部にしだいに傾斜しながら大和平野にひろがり、田原本町、橿原市と隣接しています。

河川は、大和川の源流である大和川(初瀬川)、粟原川、寺川、米川、巻向川などが流れています。

市域全面積の約60%が山間部であり、地質は、硬質で安定した斑れい岩類を含んだ花崗岩で形成されています。

桜井市位置図の画像

 

 

桜井市のなりたち

(1)ヤマトの地・桜井

桜井市は、奈良盆地の清流を集め大阪湾に注ぐ大和川の上流、奈良盆地の東南部に位置します。

このあたりは、東と南を青垣山に例えられる山々に囲まれ、古くは「やまとはくにのまほろば」とうたわれた「ヤマト」の地域であり、大和川(初瀬川)、粟原川、寺川、米川、巻向川の流域で、古代地名で「シキ・イワレ・マキムク」と呼ばれました。つまり、今の桜井市域が狭い意味での「ヤマト」でした。

(2)古代国家成立の舞台

米作りが始まった弥生時代には、銅鐸の出土で知られる大福遺跡や芝遺跡などの大規模な集落遺跡が出現しました。

そして、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての3~4世紀には、纒向の地に大集落が築かれます。

彼らの支配者たちは、ホケノ山古墳、纒向石塚古墳をはじめとする初期の前方後円墳を形成したあと、箸墓古墳、茶臼山古墳、メスリ山古墳等の200メートルを超える大型前方後円墳を造りだしました。

崇神天皇の磯城瑞垣宮をはじめとする大王宮殿が三輪山の西麓の地に作られていくのもその頃です。

5世紀に入ると雄略天皇の泊瀬朝倉宮、6世紀末には欽明天皇の磯城嶋金刺宮が築かれ、6世紀末の推古天皇が飛鳥に宮を移すまでの間、約400年にわたって古代国家の成立の舞台となったのがこの桜井でした。

これらのことは、桜井の地が日本歴史のなかで重要な位置を占めていたことを物語っています。

(3)町の誕生から桜井市への歩み

このように日本の政治、社会の長い歴史の舞台となった桜井において、万葉集に代表される文学作品、寺社の建築や彫刻など、この地域の先人は、数多くの文化を育ててきました。これら比類なき史跡や文化財は市民の大きな誇りとなっていますが、このように文化の創造に示された力量は、商工の面にも発揮されました。

中世になって、三輪郷、桜井郷、初瀬郷は次第に門前町の姿をととのえ、近世に入ると、札の辻を中心に桜井は、宿場町の性格を示し始めます。三輪素麺の登場もこの頃でしょう。

近代に入って鉄道が敷設され、自動車交通が発達するに及んで桜井は、木材の集散と加工のまちに変貌し、都市への道を歩むこととなります。

その後、昭和31年に市制がひかれ、同年上之郷村、同34年初瀬町、同38年大三輪町と合併し、一部境界変更を経て現在の桜井市を形成することになりました。

 

桜井市章

履中天皇の稚桜による説話とともに桜井の地名は「桜の井」とよばれる井戸にはじまるといわれています。

それに因んで桜の花弁を図案化し、中心より大きくひろがった花びらは若さと発展する桜井市を表しています。

桜井市章の画像

桜井市章

(昭和31年9月1日制定) 

桜の井と呼ばれる井戸の画像

「桜の井」

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