国号の発祥の地《磯城島(式島・敷島)の顕彰》

更新日:2022年03月01日

磯城島の地は紀元前から68年という長い間、崇神天皇の磯城瑞垣宮があった。

この御代に神皇分離が行われ、天照大神を檜原神社に祀った。それ以来、この付近が上古の都の地になっていたので名高くなった。敷島の大倭と続くのは、敷島の地が大倭郷に属している処から、石上布留というのと同じ枕詞となった。

島とは水中の地ではなく、宮廷領の一区域を指していう語で「しきしま」は後には、大和-日本の国を指し示す言葉になった。万葉集に「磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ」という歌がある。歌意は、「大和の国は言葉に霊力がひそんでいる国だ。私が今、こうして祈っているのだから、効き目がないわけがない。無事帰っていらっしゃるに違いない」と海路の無事を祈った歌である。

次に「敷島の大和国の明けらけき名に負う伴の緒心努めよ」というのがある。

これは、大伴家持が、我々大伴氏は潔白な心で仕えて来たとの評判を持っているのだ。疑いをかけられるようなことがあってはならない。心を励まし一所懸命まごころの行いをせよ、と一族を喩した歌だ。

ここ瑞垣宮から東南、初瀬川と粟原川との間に欽明天皇の磯城島金刺宮があった。この御代の6世紀半ばに、仏教が初めて公式に我が国に渡ってきたのである。いわば当地は、国際都市として大いに繁栄していたのだった。

古代の市場、海石榴市のあったのもこの地で、平成5年皇太子殿下御成婚記念事業の一つとして環境整備地に選ばれた。このことはまことに意義深いことではなかろうか。

この付近で少年時代を過ごした保田與重郎氏は、都の名が国の称えとなった例はその先にもあとにもない、磯城島金刺宮こそ、大倭朝廷の力あふれてなりたった大なる都だった。と後年しるされていた。

かくのごとき歴史的感情にいろどられたこの雄大な景観は、日本広しといえどもここ以外にはない。地球環境遺跡地としての保存は、こういう処をこそ、現状を汚すことなく、子孫に伝えたい。

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