纒向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)伝承地

更新日:2022年03月03日

纒向日代宮伝承地の写真

古代の英雄倭建命所縁の地

纒向日代宮は、第12代景行天皇が営んだ宮です。

記紀によりますと、景行天皇の時、皇子の小碓尊(オウスノミコト)、別名、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が活躍したとされています。

倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。

「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時に、ふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。

記紀万葉の物語(景行天皇の条)

倭建命の熊襲遠征の物語

東国遠征の物語

景行天皇の息子・小碓命(おうすのみこと)のとても気性が荒い少年でした。それを恐れた天皇は、彼を遠ざけようと、西国に行って熊曾建(くまそたける)兄弟を討つよう命じます。
熊曾建兄弟の館は、多くの兵士によってかたく守られていました。そこで小碓命は女装をして少女になりすますと、宴の時を見はからって館へ。浮かれた兄弟のすきをついて兄を刺し殺し、逃げる弟を追い詰めます。弟は「西方に敵なしのわれら兄弟をしのぐ強者が、大倭(おおやまと)の国にはいたようだ」と武勇をたたえ、「倭建命」の名をさずけました。
西方征伐を果たした倭建命でしたが、天皇はさらに東方への遠征を命じます。「父は、わたしの死を願っておられるのか…」倭建命は涙にくれました。
東国の勇敢な神や人々を下した倭建命ですが、都へ帰る途中、伊吹山の神を討ちに行き、逆に大氷雨を浴びせられます。倭建命は瀕死の体で都を目指しますが、ついに能煩野(のぼの=三重県)で力尽きました。
胸にあるのは、望郷の想いか、父への無念か。その最期に数首の歌をよみ終えた倭建命は、能煩野の地で短い命を終えました。哀しき勇者の魂は大きな白い鳥となって、西方へ飛び立ったといいます。

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