磯城瑞籬宮(シキミズガキノミヤ)伝承地

更新日:2022年03月03日

しきみずがきのみや伝承地の写真

疫病から民を救った天皇の宮

磯城瑞籬宮は、第10代崇神天皇が営んだ宮とされています。

記紀によりますと、崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。

これは、三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い、神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を探し出しました。

そして、彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ、祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。

また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。

記紀万葉の物語

三輪山の神、大物主神

古事記には、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国造りの物語に、大物主命の登場と三輪山に祀られた語が記されています。
大国主命は、船に乗ってやってきた少彦名神(すくなひこなのかみ)の協力を得て国造りの事業をされていました。

ところが、その少彦名神が常世の国へ去ってしまい大国主命は、一人になってしまいました。「私一人でどうして国造りをしていこう、どの神様とこれから国造りをしていけばよいのか」と途方に暮れていたことろ、海の彼方から光り輝く神がやって来ました。

その神は、「私をよくお祀りしてくれたなら共に国造りをしましょう。そうしなければ、国造りは難しいですよ。」と申されました。大国主命がそれならばあなたをどこにお祀りすればよいかと訊ねると、神は、「私を倭の青垣の山に祀ってくれたら国造りを成すことができるであろう」といわれました。この神の名を大物主命といい、大国主命は、そのとおり、大物主命を倭の御諸山(=三輪山)にお祀りしたと記されています。

この話は、日本書紀にも記述がありますが、大国主命と大物主命との関係については、大国主命と大物主命は同じ神であるとも、大国主命の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)であるともされています。

三輪山神婚伝承(おだまき伝承)

昔、活玉依毘売(いくたまよりびめ)という美しい娘がおりました。ある夜、娘のところへ素敵な若者がやってきて、そのうちに娘は身ごもってしまいます。驚いた両親は「夫などいないお前がなぜ」と聞きました。 娘は「毎晩通ってこられる美しい方といっしょに過ごすうちに、自然と身ごもったのです」と答えます。
両親は相手がどのような人なのか知りたがり、娘に「今度、その方が来られたら、寝床の前に赤土をまき、糸巻に巻いた麻糸を針に通しておいて、その方の着物のすそにさしなさい」と教えました
朝、娘が着物にさした麻糸をたどってゆくと、美和(みわ)山の神社のところで途切れていました。そのため、若者が美和山の神・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)だとわかったのです
このとき糸巻きに残っていた麻糸が三巻(=三勾・みわ)だったので、この地を「三輪(みわ)」と呼ぶようになりました。また、娘の子孫にあたる意富多多泥古(おおたたねこ)は、大物主大神をおまつりする大神神社の祭主になったそうです。
このお話では、赤土と麻糸は相手を特定し、神へと導くものです。それは「運命の赤い糸」を思わせ、神話の恋人たちがぐっと身近に感じられるようです。

箸墓伝承

日本書紀では、崇神天皇の条に、箸墓古墳にまつわる伝承が記されています。
崇神天皇の姑、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、大物主命の妻となりました。けれども大物主命は、昼には姿を見せず、いつも夜来るので、姫は、「あなた様は昼に姿を見せないので、お顔を見せて頂いたことがありません。もう少し留まっていただき明日そのお顔を見せていただけないでしょうか。」とお願いしました。
神は「もっともなことです。私は、明日汝の櫛箱に入っていましょう。しかし、私の姿を見て驚いてはいけませんよ。」といいました。
夜の明けるのを持って、姫が櫛箱を見ると、中に小さな美しい蛇が入っていました。姫が思わず驚いて叫ぶと、神は恥じたちまち人の姿となって、妻に「汝は忍ばず私に恥をかかせた。汝に恥をかかすために私は帰る。」といって三輪山に帰られました。
姫は、三輪山を仰ぎ見て悔い悔やみ、とうとう箸で突き亡くなりました。姫は大市に葬られましたが、人々はこの墓を箸墓といいました。
箸墓は、昼は人が造り、夜は神が造ったとか、人々の手によって、大坂山(二上山)から意思を運んだとの伝えが残されています。
日本書紀には、その様子を詠んだ歌があり、箸墓の北にある池の堤上には、歌碑が建てられています。