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万葉歌碑-歌碑の紹介(37)

磐余(いわれ)の道コース

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万葉歌碑マップ(多武の道コース・磐余(いわれ)の道コース)

No.37

山川に鴛鴦二ついて偶ひよく偶へる妹を誰か率にけむ

  • 歌の解釈:山川におしどりが雌雄離れることなく二つ並んでいるように、私と夫婦仲睦まじくしていた媛を、心なくも誰がいったいひき連れ去ったのでしょうか。
  • 日本書紀
  • 所在:山田寺跡
  • 著者:野中川原史満
  • 筆者:前川佐美雄

No.37-2

本毎に花は咲けども何とかも愛し妹がまた咲き出来ぬ

  • 歌の解釈:一木、一草みな一株ごとに花が咲いているのに、どうして、いとしい妹が再び咲いて出てこない(姿をあらわせてくれない)のでしょうか。
  • 日本書紀
  • 所在:山田寺跡
  • 著者:野中川原史満
  • 筆者:前川佐美雄

歌碑37の画像

歌碑ものがたり(その25) 

(広報『わかざくら』平成12年11月15日号掲載)

  • 山田寺跡の歌碑

「磐余道」との当市南限山田の道標から民家の間を東南へ歩むとすぐ山田寺跡だ。

入口の「山田寺遺址」としるす立看板右下に次の歌碑がある。


「山川に鴛鴦(をし)二つゐて偶 (たぐ)ひよく偶へる妹を誰か率(ゐ)にけむ」
「本毎(もとごと)に花は咲けども
何とかも愛(うつく)し妹がまた
咲き出来(でこ)ぬ」 野中川原史満(ふひとみつ)佐美雄 印


歌意は、山川におしどりが二羽並んでいるように、仲よくならんでいた姫を誰が連れ去ってしまったのだろう(その一)
毎年一本毎に花が咲いているのに、どうして、いとおしい姫が再び咲いて出て来てくれないのだろうか(その二)


皇太子に代って帰化の人(満)が歌った。皇太子は我が意を得たとほめ、涙にくれ、史満には沢山のご褒美が下賜された。


ところで、大化改新(六四五)の功臣は中臣鎌足だが、忠臣は石川麻呂だった(孝徳即位前紀)。

その石川麻呂が改新直後の大化三年、異母弟身刺(むさし、別名日向)の讒言(ざんげん)により死を賜った。孝徳天皇難波宮である。
右大臣石川麻呂は謀反を正す使臣の問責に、「私は天皇に直接申し上げたい」といったが、受け入れられず追手を受けた。

石川麻呂は側近と共に脱出、大阪から間道を当麻路にとり南下、山田寺に到着。

留守居の長男興志(こごし)を説き、のち僧侶一族に向って、「この寺は天皇のために建てた。私は讒言にあったが、ここへ帰って来たのは、人生の終わりを安らかにしたかったからだ」といって仏を仰ぎ「自分は生々世々、いくたび生まれ変わろうとも、決して君主(きみ)を怨みに思うことはありますまい」と誓いを立て自害した。

妻子ら殉死者八人と『日本書紀』はしるす。


石川麻呂の娘、皇太子妃も父に殉じられた、後日無実も判明、悔いて皇太子はひどく悲嘆にくれた。その悲しみを代作したのが歌碑の歌だ。右手向こうの雪冤碑(せつえんひ)も見るように。


山田寺址は奈良国立文化財研究所が昭和五一年から平成八年にかけ十回に及ぶ発掘調査をして、数々の貴重な発見があった。

なかでも東回廊等の発見は、当寺の壮大さに皆眼をみはったのも昨日の如くである。いま国立飛鳥資料館に山田寺東回廊再現展示がなされている。


染筆は前川佐美雄先生。先生は明治三六(一九〇三)年新庄町生れ、「心の花」入会、のち「日本歌人」創刊主宰。晩年奈良から茅ヶ崎に移住。芸術院会員。

平成二(一九九〇)年没。新庄町名誉町民。

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